ようやく、私たちの番だった
二十年以上もの間、
いつも誰かが二人を必要としていた。
最初は一人。
そのあと二人。
学校。
宿題。
誕生日。
壊れた自転車。
大学受験。
そして、
「ちょっと手伝って。」
そんな一言から始まる毎日。
気づけば、アイリンとダイレンの生活は、いつも誰かを中心に回っていた。
そしてある日、
その「誰か」がいなくなった。
…
土曜日の朝。
目覚ましは鳴らなかった。
カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。
ダイレンがゆっくり目を開け、スマートフォンを見る。
八時半。
少し眉を上げる。
隣でアイリンが寝返りを打った。
「何時?」
「もう八時半。」
彼女はぼんやりと目をこする。
「……起きなくていいの?」
ダイレンは少し考えてから笑った。
「今日は誰も待ってない。」
…
私はその様子をじっと眺めていた。
二十年以上、
夜明け前に起きることを極めたこの二人が、
ついに新しいスキルを手に入れた。
朝寝坊。
人間も進化するものらしい。
…
朝食は一時間近く続いた。
ゆっくり食べていたからではない。
誰にも邪魔されなかったからだ。
急いで送り迎えをする必要もない。
忘れ物を探す必要もない。
「これどこ?」
そんな声も聞こえない。
不思議なことに、
静けさはもう気まずくなかった。
少しずつ、
心地よいものへ変わっていた。
…
二杯目のコーヒーを飲みながら、
ダイレンが窓の外を眺める。
「旅行でも行くか。」
アイリンが笑った。
「どこへ?」
「まだ決めてない。」
「いいわね。」
「行き先が?」
彼女は首を振る。
「急がなくていいっていうのが。」
…
私は思わず笑ってしまう。
本当に人間という生き物は面白い。
責任の話が終わった瞬間、
今度は半年かけて旅行の計画を立て始める。
…
午後になると、
二人は散歩に出かけた。
買い物でもない。
用事でもない。
天気がいいから。
それだけだった。
商店街を歩き、
気になった店をのぞき、
ゆっくり歩く。
スポーツ用品店の前で、
ダイレンが立ち止まった。
「覚えてる?」
アイリンがショーウィンドウを見る。
「青い自転車?」
「いや。」
彼は笑う。
「木にぶつけた方。」
「ぶつけてない。」
アイリンは腕を組む。
「木の証言は違うけど。」
「犬を避けたんだ。」
「犬なんていなかったわ。」
「いたかもしれない。」
アイリンは笑いながら立ち止まった。
…
私は大きくため息をつく。
二十年以上も夫婦をやると、
存在しなかった犬について真剣に言い争うようになるらしい。
…
そのまま歩き続ける。
大学時代の話。
失敗した旅行。
今となっては笑い話になった出来事。
あの頃は大したことじゃなかった思い出が、
いつの間にか一番大切な宝物になっていた。
…
その夜は料理をせず、
テイクアウトを買って帰った。
テレビはつけない。
小さな音で音楽だけが流れている。
食事をしながら、
ダイレンが静かに言った。
「こういう時間、いいな。」
アイリンも頷く。
「うん。」
少し考えてから、
ダイレンが微笑む。
「ようやく……」
彼女が顔を上げる。
「俺たちの番だな。」
アイリンはすぐには答えなかった。
テーブル越しに手を伸ばし、
そっと彼の手を握る。
「私も、そう思う。」
…
私は二人を見つめた。
そして静かに目をそらす。
少しだけ。
本当に少しだけ、
信じそうになった。
…
月曜日の朝。
ダイレンはいつも通りスーツを着て家を出た。
玄関でアイリンにキスをして、
ブリーフケースを持ち、
会社へ向かう。
どこまでも普通の朝だった。
…
会社に着いて間もなく、
開いたままのドアを誰かが軽くノックした。
上司だった。
「おはよう。」
「おはようございます。」
上司は笑顔のまま言う。
「少し時間あるかな?」
ダイレンも笑って頷いた。
「もちろんです。」
…
私は背筋に小さな寒気を覚えた。
長いこと人間を見てきて、
一つだけ確信していることがある。
人生を変える出来事は、
怒鳴り声から始まることはほとんどない。
たいていは、
誰かが穏やかに微笑みながら、
こう言うのだ。
「少し時間あるかな?」




