家に響くのは、私たちの声だけ
人生には、準備ができているかなんて聞いてくれない出来事がある。
ある日、当たり前のようにやって来て、
スーツケースを抱えながら、
「さあ、次よ」と言うだけだ。
…
合格通知が届いたのは、木曜日の午後だった。
今回は、数年前のような驚きはなかった。
キッチンが静まり返ることも、
誰かを押しつぶしそうな勢いで抱きしめることもない。
みんな笑った。
みんな喜んだ。
そして、みんな分かっていた。
この先に何が待っているのかを。
…
私は腕を組みながら、その様子を見ていた。
「今回は、冗談が思いつかない。」
アイリンが笑う。
「珍しいわね。」
「大学ネタは前回で使い切ったのよ。」
彼女は合格通知を丁寧にたたんだ。
「じゃあ次は?」
私はため息をつく。
「また段ボール箱を買うところから。」
…
今回は何もかもが早かった。
迷うことも少なく、
質問も減り、
感傷に浸る時間さえあまりない。
部屋探し。
買い物。
家具選び。
生活用品。
契約書。
終わりの見えない手続き。
そして、なぜか今回も買い物リストにはデスクライトが書かれていた。
私はじっと見つめる。
「ねえ。」
アイリンが振り向く。
「大学生って、どうして全員デスクライトが必要なの?」
誰も答えなかった。
世の中には、
世代が変わっても解けない謎というものがあるらしい。
…
長男も週末になると帰ってきて、引っ越しを手伝った。
段ボールを運び、
自分も数年前まで一年生だったとは思えない口調で大学生活について語り、
頼まれてもいないのに助言まで始める。
次男は次男で、
「そんなに偉そうに言われても。」
という顔をして聞いていた。
兄弟というものは、どこの家でも似たようなものらしい。
…
ある午後。
二人が「エアフライヤーは本当に必要か」という実にどうでもいい議論を始めた時、
ダイレンがそっとアイリンの隣へ来た。
「あいつら、大きくなったな。」
アイリンは二人を見つめたまま頷く。
「そうね。」
「不思議だ。」
「ええ。」
寂しそうではなかった。
ただ、
少し信じられないという顔をしていた。
…
引っ越しの日は、あっという間にやって来た。
今回も車は荷物でいっぱいだった。
トランクも、
後部座席も、
足元まで段ボール。
長男が笑いながら言う。
「父さん……。」
ダイレンは満足そうにトランクを閉めた。
「入った。」
「その技術だけは本当に尊敬する。」
「ありがとう。」
私は静かに頷く。
「もう認めるしかないわね。」
「あなたのお父さんだけは、家具を積む時だけ物理法則を書き換えられる。」
…
大学近くの部屋は明るく、居心地がよかった。
みんなで荷物を運び、
家具を組み立て、
本を並べ、
食器をしまう。
少しずつ、
その部屋は「引っ越したばかりの部屋」ではなく、
新しい生活の場所になっていった。
…
帰る前、
長男が弟の肩を軽く抱いた。
「大丈夫だから。」
「うん。」
「困ったら電話しろよ。」
「する。」
そのやり取りを聞いていたダイレンが目を丸くする。
「ちょっと待て。」
兄弟が振り向く。
「それ、本当は俺の台詞だった。」
二人とも笑った。
アイリンも笑う。
その笑顔のおかげで、
別れは少しだけ軽くなった。
…
やがて、
運ぶ荷物もなくなり、
片付ける棚もなくなった。
部屋にいる理由がなくなる。
四人は玄関の前で立ち止まった。
次男は最初に兄を抱きしめた。
次にダイレン。
そしてアイリン。
「大丈夫だから。」
アイリンは優しく頷く。
「ええ。」
今回は、
本当にそう思えた。
…
帰り道は静かだった。
誰もラジオをつけない。
無理に会話を探そうともしない。
こういう日は、
沈黙の方が自然だった。
…
家へ戻る。
玄関を開けても、
誰も何も言わなかった。
ダイレンは鍵をいつもの場所へ置き、
アイリンは静かにドアを閉める。
それから二人とも、その場に立ったまま動かなかった。
まるで、
家の方から何か言ってくれるのを待っているように。
もちろん、
何も聞こえなかった。
…
私はゆっくり部屋を見回す。
「……あ。」
アイリンがこちらを見る。
「何?」
珍しく、
皮肉が浮かばなかった。
「これは……」
廊下の奥へ目を向ける。
「今までとは違う。」
…
ダイレンが静かに口を開いた。
「俺たちだけになったな。」
アイリンはそっと隣へ歩き、
彼の手を握る。
「そうね。」
二人とも、
しばらくそのままだった。
…
家が空っぽになったわけではない。
棚には家族写真が並び、
食卓には何年もの食事でついた小さな傷が残っている。
この家には、
二人の息子を育てた二十年以上の時間がちゃんと息づいていた。
でも、
家は少しずつ姿を変えていた。
もう、
子どもたちが成長していく場所ではない。
これからは、
二人がもう一度、
夫婦として新しい時間を築いていく場所になる。
…
私は腕を組んだ。
人間はこれを
「空の巣症候群」
なんて呼ぶらしい。
でも、
私はあまり好きじゃない。
アイリンが笑う。
「どうして?」
私はリビングをもう一度見渡した。
「巣って、一時的な場所でしょう?」
少し考えて続ける。
「ここは空っぽなんじゃない。」
「新しい人生が始まる場所になっただけ。」
…
あの夜、
私たちは誰一人として気づいていなかった。
これまでで一番大変な時間は、
もう終わったと思っていた。
でも違った。
本当に難しかったのは、
家族を育てることじゃない。
その役目を終えたあと、
二人がどんな夫婦になっていくのか――
それを見つけることだった。




