家も、静かになることを覚えるらしい
誰も教えてくれない。
子どもだけじゃない。
家だって変わる。
人は「子どもが成長する」とか、「親離れする」とか、そういう話はたくさんする。
でも、一人いなくなった家がどう変わるのかについて話す人は、ほとんどいない。
…
不思議なことに、家は空っぽになったわけじゃなかった。
次男はまだ家にいる。
玄関には靴が脱ぎっぱなしだし、リビングには誰かが読みかけの本を置き忘れている。
なのに――
何かが違った。
静けさの種類が変わっていた。
…
最初の数日は、朝食の時間がいちばん変だった。
アイリンはいつものように朝食を用意し、ダイレンはコーヒーを淹れる。
少し遅れて次男が眠そうな顔で階段を下りてきて、「おはよう」とだけ言って席に着いた。
いつも通りの朝。
そう思った、その時だった。
「お兄ちゃん、起こしてきてもらえる?」
アイリンは言った瞬間、自分で「あ」と小さく笑った。
次男も思わず笑う。
「三時間先の大学まで?」
「……そうだった。」
ダイレンもコーヒーカップを持ったまま苦笑した。
「昨日、俺も同じこと考えた。」
三人で顔を見合わせて笑う。
ほんの数秒の出来事だった。
それでも、その笑いには少しだけ寂しさが混じっていた。
…
私は静かに腕を組む。
「習慣って厄介よね。」
アイリンが振り向く。
「何が?」
「人は出ていくのに、習慣だけ置いていくの。」
…
新しい生活には、少しずつ慣れていった。
食卓の皿は一枚減った。
洗濯物も少しだけ減った。
二階から「充電器知らない?」という声も聞こえなくなった。
家は寂しくなったわけじゃない。
ただ、新しい呼吸の仕方を覚え始めていた。
…
ある午後。
アイリンは洗濯物をたたみながら、無意識にバスタオルを四枚重ねていた。
四枚目を持ち上げたところで手が止まる。
「あ……」
少し笑って、その一枚を棚へ戻した。
「今は三枚で足りるのね。」
誰に言うでもない独り言だった。
…
私は壁にもたれながら頷く。
「やっぱり面白い。」
「何が?」
「人間って、もう家にいない人の分まで数えちゃうのよ。」
アイリンは返事をしなかった。
でも、小さく笑っていた。
…
意外だったのは、次男だった。
夕食の時間になると、以前よりずっとよく話すようになった。
部活のこと。
先生のものまねをする友達のこと。
動画を三本見ただけでバイクを直せると思い込んだ同級生のこと。
ダイレンが吹き出した。
「それで?」
「バイクが勝った。」
三人とも笑った。
…
食後、皿を洗いながらダイレンがぽつりと言った。
「あいつ、こんなに話す子だったっけ。」
アイリンも笑う。
「ずっとそうだったわ。」
「じゃあ、なんで気づかなかったんだろう。」
彼女は皿を拭く手を止めずに答えた。
「きっと……」
リビングでは次男が友達と電話をしながら笑っている。
その声を聞きながら続けた。
「いつも二人の声を同時に聞いていたから。」
ダイレンは静かに頷いた。
「そうか。」
「私も今まで気づかなかった。」
…
数日後。
アイリンは長男の部屋の窓を開けに行った。
部屋はきれいに片付いていた。
ベッドも、そのまま。
机も、そのまま。
本棚にはお気に入りだった本が何冊か残っている。
窓際の小さな観葉植物に水をあげ、写真立てを少しだけまっすぐに直した。
本当は曲がってなんていなかった。
それでも直した。
それから静かに電気を消え、部屋を出た。
…
私は腕を組む。
「なるほど。」
アイリンが笑う。
「今度は何?」
「愛情っていうのは、家にいない人の植物に水をあげることも含まれるらしい。」
彼女は吹き出した。
「そう言われると変ね。」
「人間は昔から、そういう生き物よ。」
…
その日の夜。
夕食を済ませると、次男は友達と出かけて行った。
家にはアイリンとダイレンだけが残る。
テレビはつけなかった。
二人ともスマートフォンにも手を伸ばさない。
静かな時間だった。
でも、もう居心地の悪い静けさではなかった。
しばらくして、ダイレンが口を開く。
「あいつがいないの、まだ変な感じだな。」
アイリンは頷いた。
「私も。」
少し沈黙が流れる。
「でも。」
彼女は穏やかに笑った。
「電話してくる声、すごく楽しそう。」
ダイレンも笑った。
「そうだな。」
「それを聞くと安心する。」
ダイレンはそっと彼女の手を握った。
「俺も。」
…
私は二人を見つめながら、少し考えた。
人間って、本当に理解しづらい。
誰かがいなくて寂しいと思いながら、
その誰かが幸せそうにしているだけで、自分も嬉しくなれる。
そんな矛盾した気持ちを、
どうして同時に抱えられるんだろう。
……
正直に言う。
私はまだ、その仕組みを理解できていない。




