どうやら私たち、昔はデートしていたらしい
金曜日は、いつも通り慌ただしく始まった。
アイリンは翻訳の修正をしながら夕食の支度も進めていた。リビングでは下の子が積み木で何か危なっかしいものを作り、上の子は「定規が見つからないと宿題なんて絶対できない」と本気で訴えている。
その時、ダイレンがいつもより一時間ほど早く帰ってきた。
アイリンはノートパソコンから顔を上げる。
「今日は早いのね」
ダイレンは答える代わりに、紙袋を二つ持ち上げた。
「夕飯、買ってきた」
アイリンは目を瞬かせる。
「……夕飯を?」
「うん。」
心の中でオスクリタが目を細めた。
「怪しい。」
「あなたは何でも怪しがるじゃない。」
「特に、落ち着いた顔でテイクアウトを持って帰る男は信用できない。」
・・・
子どもたちは大喜びだった。
今日は誰も料理をしなくていい。
待つ必要もない。
あっという間にテーブルにはハンバーガーやポテト、紙ナプキンが並び、ケチャップだけは必要以上に使われていた。
久しぶりに、少しだけ肩の力が抜けた夕食になった。
下の子は得意そうに一枚の絵をダイレンへ見せる。
「見て!」
ダイレンは真剣な顔で眺めた。
「すごいな。」
上の子が横から言う。
「それ、恐竜じゃないよ。」
「ドラゴンだもん!」
ダイレンはうなずいた。
「もちろんドラゴンだ。」
「でも羽がないよ。」
ダイレンは笑う。
「心には羽があるんだ。」
アイリンは思わず吹き出した。
その瞬間、ダイレンのスマホが震えた。
みんなが気づく。
彼は画面を一瞬だけ見た。
そしてスマホを裏返しにして置き、もう一度下の子を見る。
「それで、このドラゴンはどうして紫色の火を吐くんだ?」
・・・
心の中でオスクリタがアイリンへ身を乗り出した。
「見た?」
「何を?」
「仕事を無視した。」
アイリンは肩をすくめる。
「そんなに重要じゃなかったのかも。」
オスクリタは首を横に振る。
「違う。」
「見ただけで分かるの?」
「見たから分かるの。」
・・・
夕食のあと、みんなで片づけをしている間も、子どもたちは「食器はこう並べるんだ」と真剣に言い合っていた。
食器洗い機にも、子どもなりのルールがあるらしい。
ようやく二人とも眠りにつく頃には、家の中は久しぶりに静かになっていた。
アイリンは反射的にノートパソコンへ手を伸ばす。
その手をダイレンがそっと止めた。
「今日はやめよう。」
「でも、まだ……」
「分かってる。」
彼は微笑む。
「一時間くらい待っても逃げないよ。」
・・・
数分後、ダイレンはコーヒーを二杯持って戻ってきた。
「ちょっと付き合って。」
「どこへ?」
「ベランダ。」
アイリンは窓の外を見る。
「寒いわよ。」
「毛布がある。」
・・・
結局二人は一枚の大きな毛布にくるまり、それぞれコーヒーを手にベランダへ座った。
夜の街は静かだった。
遠くで犬が吠える。
一台だけ車が通り過ぎる。
それ以外は何も聞こえない。
しばらく二人とも何も話さなかった。
気まずいからではない。
何から話せばいいのか分からなかったのだ。
ここ数年、二人の会話は予定や学校、買い物、締め切りばかりだった。
静かな時間そのものが、少し久しぶりだった。
・・・
心の中でオスクリタが腕を組む。
「おめでとう。」
アイリンは街を見たまま答える。
「今度は何?」
「デートの仕方を忘れてる。」
アイリンは笑った。
「大げさね。」
「本当に?」
オスクリタはダイレンを指差す。
「もう四分も座ってるのに、何も話してない。」
・・・
さらに少し沈黙が続いたあと、ダイレンが咳払いをする。
「そういえば。」
アイリンが笑う。
「そういえば?」
「翻訳の仕事、どう?」
アイリンは驚いた。
「私の仕事?」
「うん。」
「興味あるの?」
ダイレンは少し笑う。
「最近、聞いてなかったなって思って。」
・・・
アイリンは今抱えている作品の話を始めた。
ある国では笑える冗談が、別の国ではまったく通じないこと。
文化が違えば、同じセリフでも意味が変わること。
何度も書き直したこと。
どうしても自然に話してくれない登場人物がいること。
ダイレンは最後まで黙って聞いていた。
時々笑い、時々質問し、時々ただうなずく。
一度もスマホを見ることはなかった。
・・・
気づけば、アイリンは翻訳の話ではなく、自分自身のことを話していた。
仕事のこと。
少しずつ自分を見失っていたこと。
母親でもなく、妻でもなく、一人の自分を忘れそうになっていたこと。
そんな話をするつもりはなかった。
でも自然と口から出ていた。
・・・
ダイレンは最後まで黙って聞いた。
そして静かに息をつく。
「これが恋しかった。」
アイリンは首をかしげる。
「何が?」
ダイレンは二人の間を指差した。
「こうやって話すこと。」
少し笑う。
「提出書類の話でも、買い物の話でもなく。」
「君の話。」
・・・
アイリンも笑った。
「最後にこんなふうに話したの、いつだったかしら。」
「俺も覚えてない。」
・・・
コーヒーが冷めるまで、二人はそのまま座っていた。
やがてダイレンが立ち上がる。
「少し歩こう。」
「今?」
「近所を一周だけ。」
時計はもう十一時近かった。
それでも二人は家を出た。
・・・
夜道にはほとんど人がいない。
ベビーカーも押していない。
買い物袋も持っていない。
急ぐ理由もない。
何かの用事へ向かうためではなく、ただ一緒に歩くためだけに歩いた。
・・・
心の中でオスクリタが露骨に嫌そうな顔をする。
「健康的すぎる。」
アイリンは笑う。
「そのうち慣れるわ。」
「慣れたくない。」
・・・
家へ戻ると、景色は何一つ変わっていなかった。
玄関にはランドセル。
ソファには畳みきれていない洗濯物。
廊下には誰かが置きっぱなしにした恐竜のおもちゃ。
明日になれば、また仕事がある。
学校もある。
会議もある。
メールも届く。
何も変わらない。
でも、一つだけ違っていた。
二人の心が、少しだけ近づいていた。
・・・
心の中でオスクリタが大げさにため息をつく。
「まったく。」
アイリンはコートを脱ぎながら笑う。
「今度は何?」
「あなたたち、もう完全に『電気代と買い物リストしか話さない夫婦』になると思ってたのに。」
アイリンは肩をすくめた。
「まだ電気代の話はするわよ。」
「知ってる。」
オスクリタはシンクに置かれた二つの空のマグカップを指差した。
「でも今夜は思い出した。」
少しだけ笑う。
「どうして結婚したのかを。」
・・・
アイリンはキッチンの明かりを消した。
ずっと、二人には奇跡が必要なんだと思っていた。
でも、そうじゃなかったのかもしれない。
必要だったのは、お互いをもう一度選び直すこと。
それだけだった。
・・・
心の中でオスクリタが顔をしかめる。
「ほんと嫌になる。」
少し間を置いて、小さく付け加えた。
「……でも、今回は負けでいいわ。」




