母親になれば自然にできるって聞いてたんだけど。誰に?
家に帰って最初の夜は、たぶん三年くらい続いた。
少なくともアイリンの体感では。
赤ちゃんはようやく眠った。
二十分ほど前に。
本来なら、その時間で少し休めるはずだった。
でもアイリンは眠れなかった。
ただ見つめていた。
観察していた。
警戒していた。
...
心の中では、オスクリタが喪服姿のヴィクトリア朝未亡人みたいな格好でベビーベッドの横に座っている。
「知ってる?」
彼女は腕を組んだ。
「ホラー映画って、だいたいこういう静かな場面から始まるのよ」
アイリンはため息をついた。
「寝てるだけだから」
「それが怪しいの」
...
その瞬間、赤ちゃんが泣き始めた。
...
オスクリタが勢いよく指を差す。
「ほらね!」
...
最初の数週間は、病院で感じたあの柔らかい幸福感とはまるで違っていた。
みんなは赤ちゃんを抱いて微笑む写真を見せてくれる。
でも、午前三時に一緒に泣いている写真なんて誰も載せない。
愛しているのに、どうしていいか分からなくなることも。
誰も教えてくれない。
...
みんな言った。
最初は大変だと。
そのうち慣れると。
自然に分かるようになると。
...
でもアイリンには分からなかった。
少なくとも、ほとんどの日は。
...
ある夜。
午前二時を過ぎた頃。
アイリンは赤ちゃんを抱いたままベッドの端に座っていた。
ダイレンはキッチンでミルクを温めている。
部屋は暗かった。
泣き声だけが響いていた。
...
オスクリタはクリップボードを持って部屋を歩き回っている。
「現状報告」
咳払いを一つ。
「深刻な睡眠不足」
ページをめくる。
「情緒不安定」
さらにめくる。
「判断力の低下」
...
アイリンは赤ちゃんを見た。
...
「私たち、人間を作ったんだよね」
...
オスクリタも赤ちゃんを見る。
アイリンを見る。
もう一度赤ちゃんを見る。
...
「正直に言うと」
彼女は真顔で言った。
「私はまだ無資格だと思う」
...
アイリンは笑った。
そしてそのまま泣いた。
...
最近はそういうことが増えていた。
...
授乳は特に難しかった。
毎回試験みたいだった。
しかも勉強していない試験。
赤ちゃんはうまく吸えない。
肩は痛い。
眠れない。
疲れている。
...
そして少しずつ。
恐怖が部屋の中に入り込んできた。
...
派手な恐怖ではない。
パニックでもない。
もっと静かで。
もっとしつこいもの。
...
みんなはどうしているんだろう。
私だけが分からないんじゃないだろうか。
...
午前三時に育児掲示板を読む。
午前四時に動画を見る。
午前五時には、穏やかな赤ちゃんを抱いて微笑む完璧なお母さんたちと自分を比べている。
...
オスクリタが画面を指差した。
「SNSの完璧なお母さんたちは政府の陰謀よ」
...
アイリンは少しだけ笑いそうになった。
少しだけ。
...
小児科医は優しかった。
看護師も優しかった。
母も励ましてくれた。
ダイレンも何度も支えてくれた。
...
でも疲労は、どんな言葉も別の意味に翻訳してしまう。
...
失敗してる。
...
そんな声に。
...
ある午後。
また授乳がうまくいかなかった。
アイリンはベッドの端に座り、泣くのを我慢していた。
赤ちゃんも泣いている。
彼女も泣きそうだった。
どちらも状況に満足していない。
...
ダイレンが目の前にしゃがんだ。
慎重に。
優しく。
彼も疲れている。
...
「ねえ」
...
「少し息をしよう」
...
アイリンは首を振った。
...
「できない」
...
「できるよ」
...
「できない」
声が思った以上に震えた。
...
「本当に無理かもしれない」
...
珍しくオスクリタは何も言わなかった。
...
ただ見ていた。
...
その沈黙は、どんな皮肉より重かった。
...
その夜。
ようやく全員が眠ったあと。
アイリンは一人で子供部屋にいた。
小さなランプだけが部屋を照らしている。
...
希望でいっぱいだったはずの部屋。
今は責任でいっぱいだった。
...
胸の中で眠る赤ちゃんを見る。
小さい。
頼りない。
完全に自分たちを必要としている。
...
その事実が突然重くのしかかった。
...
「私じゃ足りなかったらどうしよう」
...
気づく前に言葉が漏れていた。
...
オスクリタがゆっくり現れる。
ベビーベッドの横に。
...
「普通なら」
彼女は言った。
「ここで心をえぐるようなことを言う場面なんだけど」
...
アイリンは顔を上げる。
...
「でも正直」
オスクリタは赤ちゃんを見る。
それからアイリンを見る。
...
「あなた、たぶん誰より頑張ってるわよ」
...
アイリンは瞬きをした。
...
「慰めるの下手だね」
...
「知ってる」
...
日々は流れていった。
ミルク。
洗濯。
おむつ。
コーヒー。
食べかけの食事。
...
日常に見える小さな緊急事態の連続。
...
ダイレンもできる限り手伝った。
夜中のおむつ替え。
朝のコーヒー。
アイリンが限界の日には、赤ちゃんを抱いて部屋を歩き回った。
...
でも愛情は疲労を消してくれない。
それが一番怖かった。
...
息子を心から愛している。
それなのに。
自分が消えていく気がした。
...
ある夜。
ようやく赤ちゃんを寝かしつけたあと。
アイリンは浴室の鏡の前に立っていた。
...
そこに映る女性は見慣れているはずなのに。
どこか知らない人みたいだった。
...
疲れた目。
乱れた髪。
自分のものではないように感じる身体。
...
鏡の中のオスクリタが後ろに現れる。
静かだった。
皮肉もない。
演技もない。
...
「気づいた?」
...
アイリンは唾を飲んだ。
...
「何を?」
...
「自分じゃなくなった気がしてること」
...
沈黙が落ちる。
...
正直すぎる沈黙だった。
...
アイリンはゆっくり洗面台にもたれた。
...
「もっと幸せなものだと思ってた」
...
オスクリタも少し疲れた顔をしていた。
...
「幸せって」
彼女は肩をすくめる。
「みんなが認めるより、ずっと散らかってるのかもね」
...
数週間が過ぎた。
赤ちゃんは少し長く眠るようになった。
アイリンも少し休めるようになった。
...
不安は消えていない。
でもずっと静かになった。
...
ある夜。
ようやく赤ちゃんが眠り、アイリンはソファに倒れ込んだ。
もう動く元気もない。
...
オスクリタも隣に倒れ込む。
...
「はあ」
大きなため息。
...
「恋愛で悩んでた頃が懐かしいわ」
...
アイリンは弱々しく笑った。
...
「私も」
...
不思議と心地いい沈黙が流れる。
...
やがてオスクリタが横目で見た。
...
「ねえ」
少し間。
...
「あなた、失敗してないから」
...
アイリンは黙って彼女を見る。
...
「自分を支えるだけでも大変な状態で」
さらに間を置く。
...
「人間一人の人生まで預かることになったのよ」
...
オスクリタは肩をすくめた。
...
「誰だって壊れかけるわ」
...
アイリンはゆっくり天井を見上げた。
呼吸を整える。
...
そして母親になってから初めて。
...
自分を壊れた人間だと思うのをやめた。
...
ただ――
少し、いっぱいいっぱいだっただけなのだと。




