信頼ってこういう感じなのね。怖すぎるんだけど。
その日のアパートは妙に静かだった。
アイリンは鏡の前に立ち、もう何度目か分からないほどドレスの裾を整えていた。
シンプル。
上品。
無難。
少なくとも、そのつもりで選んだ。
…
心の中では、オスクリタが椅子の背にもたれながら彼女を眺めている。
まるで何か珍しい生き物でも観察しているみたいに。
「へえ」
オスクリタは腕を組んだ。
「今夜のあなた、ほとんど情緒が安定してる人間に見えるわね」
…
アイリンは目を細めた。
「ありがとう」
…
「まだ早いわ」
オスクリタは玄関を指差す。
「戦場はこれからよ」
…
アイリンはもう一度鏡を見る。
完璧になろうとしているわけじゃない。
少なくとも以前ほどではない。
ただ比べないようにしているだけだ。
…
それでも、昔からの癖は簡単には消えない。
もっと綺麗な人が現れたら。
もっと気楽な人が現れたら。
もっと面倒じゃない人が現れたら。
…
そんな考えが今でも時々顔を出す。
…
ドレスの布地をなぞっていた指が止まる。
アイリンはゆっくり息を吐いた。
…
今夜は違う。
…
そのとき、ダイレンが部屋に入ってきた。
黒いスーツ姿だった。
正直に言うと反則だった。
…
自然体で。
自信があって。
本人はまったく自覚していないけれど、かなり危険だった。
…
彼の表情は、アイリンを見た瞬間にやわらかくなる。
…
「準備できた?」
…
アイリンは首を傾げた。
「企業社会という名のサバイバルゲームに?」
…
ダイレンは笑った。
「その認識でだいたい合ってる」
…
車の中は穏やかだった。
小さく流れる音楽。
窓の外を流れていく街の灯り。
…
ダイレンは仕事の失敗談や同僚の面白い話をしていた。
どうでもいい話ばかりだ。
…
でもアイリンは気づいていた。
彼がわざとそうしていることに。
…
緊張しないように。
考えすぎないように。
…
それを言葉にしないところが、彼らしかった。
…
会場はすでに賑わっていた。
グラスの音。
笑い声。
やわらかな照明。
…
いかにも「成功した人たちの集まり」という雰囲気だ。
…
アイリンは会場に入った瞬間、それを感じた。
胸の奥の小さな緊張。
…
恐怖ではない。
不安でもない。
…
ただ、意識しているだけ。
…
心の中でオスクリタが周囲を見回した。
…
「出てきたわね」
…
「誰が?」
…
「自分以外の人は全員、人生の説明書をもらってると思ってるあなた」
…
アイリンは思わず苦笑した。
…
その後すぐにダイレンは同僚たちに囲まれた。
握手。
祝福。
冗談。
質問。
…
自然と人が集まってくる。
それは今の彼の日常だった。
…
そこへアンドレアが現れた。
…
「やっと見つけた」
…
彼女はアイリンを抱きしめる。
そして少し離れて全身を見た。
…
「ああ」
…
「今夜あの子、絶対あなたのこと嫌いになるわね」
…
アイリンはため息をついた。
…
「その話?」
…
アンドレアは肩をすくめた。
…
視線の先には例の女性がいた。
バーの近くで同僚たちと話している。
綺麗だった。
洗練されていた。
努力していないように見える努力を完璧にしているタイプだ。
…
そして数分おきにダイレンを見ている。
…
アンドレアは声を落とした。
…
「私の勘違いかもしれないけど」
…
少し間。
…
「たぶん違う」
…
アイリンは静かにうなずいた。
怒りはない。
敵意もない。
…
ただ気づいているだけだった。
…
そしてそれが以前との違いだった。
…
やがて、その女性がこちらへ歩いてくる。
…
心の中でオスクリタが姿勢を正した。
…
「よし」
…
「物語が歩いて来たわ」
…
ダイレンも気づいた。
…
そしてアイリンは見た。
ほんの一瞬の変化を。
…
迷いではない。
罪悪感でもない。
…
選択だった。
…
ダイレンは自然にアイリンの手を握った。
ためらいもなく。
考える様子もなく。
…
ただ当たり前のように。
…
女性が近づく前に彼は言った。
…
「こちら、妻のアイリンです」
…
誇示するような言い方ではない。
見せつけるためでもない。
…
ただ事実を伝えただけ。
…
でも、それで十分だった。
…
空気が少し変わる。
境界線がはっきりする。
…
その後もダイレンは手を離さなかった。
…
人を紹介するときも。
会話をするときも。
別の同僚に呼ばれたときも。
…
親指が時々彼女の手の甲をなぞる。
ほんの小さな仕草。
…
でもアイリンには分かった。
…
ちゃんと見えている。
ちゃんと選ばれている。
…
そう伝わってきた。
…
少ししてアイリンは化粧直しのために化粧室へ向かった。
…
鏡の前。
ようやく一人になれる。
…
オスクリタが隣に現れる。
腕を組んだまま。
…
しばらくして口を開いた。
…
「あの子、本当に綺麗よね」
…
アイリンは鏡の中の自分を見る。
…
「そうね」
…
オスクリタがまばたきをした。
予想外の答えだったらしい。
…
アイリンはイヤリングを整えながら続ける。
…
「でも私は彼女と戦ってるわけじゃない」
…
静かな声だった。
…
「私が戦ってるのは」
少し間。
…
「隣にああいう人がいたら、自分が消えてしまうって思ってる私自身」
…
鏡の中の自分を見つめる。
…
子供の頃の自分じゃない。
高校生の頃の自分でもない。
…
今の自分だ。
…
「あなたが何を言ってもいい」
アイリンは言った。
「でも、最後に何を信じるかは私が決める」
…
オスクリタは珍しく何も言わなかった。
…
やがて昇進式が始まる。
…
拍手の中をダイレンがステージへ向かう。
自信に満ちている。
尊敬されている。
評価されている。
…
アイリンはその姿を見つめた。
…
不思議なことに、不安はなかった。
…
誇らしかった。
ただそれだけだった。
…
フラッシュが光る。
祝福の声が飛ぶ。
…
そしてダイレンは人混みの中を見渡した。
…
誰かを探している。
…
アイリンはすぐに分かった。
…
次の瞬間、彼の視線が彼女を見つける。
そして笑った。
…
その笑顔を見た瞬間。
胸の中で何かが静かに落ち着いた。
…
完全じゃない。
永遠でもない。
…
それでも十分だった。
…
帰宅した頃には街は静かになっていた。
…
ダイレンはネクタイを緩める。
そして彼女を見る。
…
ちゃんと。
まっすぐに。
…
「今日」
彼は静かに言った。
「見てたよ」
…
アイリンは少しだけ視線を落とす。
…
「大変だっただろ」
…
彼は近づいた。
…
「でも逃げなかった」
…
その言葉は思った以上に胸に響いた。
…
ダイレンは彼女の手を握る。
…
「君は、自信があるときの自分しか見えてないと思ってるかもしれない」
…
少し笑う。
…
「でも俺が好きなのは、そっちだけじゃない」
…
心の中でオスクリタが顔をしかめた。
…
「うわ」
…
「最悪」
…
アイリンは思わず笑ってしまう。
…
「最悪?」
…
「そうよ」
オスクリタは指を差した。
…
「そういう台詞は一生忘れられないやつなの」
…
アイリンはさらに笑った。
…
不安は消えていない。
…
でももう部屋全体を支配してもいなかった。
…
オスクリタは壁にもたれかかる。
…
「まあいいわ」
大きなため息。
…
「続編は生き延びた」
…
そして指を向ける。
…
「でも三作目があるなら追加料金だからね」




