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信頼ってこういう感じなのね。怖すぎるんだけど。

その日のアパートは妙に静かだった。

アイリンは鏡の前に立ち、もう何度目か分からないほどドレスの裾を整えていた。

シンプル。

上品。

無難。

少なくとも、そのつもりで選んだ。

心の中では、オスクリタが椅子の背にもたれながら彼女を眺めている。

まるで何か珍しい生き物でも観察しているみたいに。

「へえ」

オスクリタは腕を組んだ。

「今夜のあなた、ほとんど情緒が安定してる人間に見えるわね」

アイリンは目を細めた。

「ありがとう」

「まだ早いわ」

オスクリタは玄関を指差す。

「戦場はこれからよ」

アイリンはもう一度鏡を見る。

完璧になろうとしているわけじゃない。

少なくとも以前ほどではない。

ただ比べないようにしているだけだ。

それでも、昔からの癖は簡単には消えない。

もっと綺麗な人が現れたら。

もっと気楽な人が現れたら。

もっと面倒じゃない人が現れたら。

そんな考えが今でも時々顔を出す。

ドレスの布地をなぞっていた指が止まる。

アイリンはゆっくり息を吐いた。

今夜は違う。

そのとき、ダイレンが部屋に入ってきた。

黒いスーツ姿だった。

正直に言うと反則だった。

自然体で。

自信があって。

本人はまったく自覚していないけれど、かなり危険だった。

彼の表情は、アイリンを見た瞬間にやわらかくなる。

「準備できた?」

アイリンは首を傾げた。

「企業社会という名のサバイバルゲームに?」

ダイレンは笑った。

「その認識でだいたい合ってる」

車の中は穏やかだった。

小さく流れる音楽。

窓の外を流れていく街の灯り。

ダイレンは仕事の失敗談や同僚の面白い話をしていた。

どうでもいい話ばかりだ。

でもアイリンは気づいていた。

彼がわざとそうしていることに。

緊張しないように。

考えすぎないように。

それを言葉にしないところが、彼らしかった。

会場はすでに賑わっていた。

グラスの音。

笑い声。

やわらかな照明。

いかにも「成功した人たちの集まり」という雰囲気だ。

アイリンは会場に入った瞬間、それを感じた。

胸の奥の小さな緊張。

恐怖ではない。

不安でもない。

ただ、意識しているだけ。

心の中でオスクリタが周囲を見回した。

「出てきたわね」

「誰が?」

「自分以外の人は全員、人生の説明書をもらってると思ってるあなた」

アイリンは思わず苦笑した。

その後すぐにダイレンは同僚たちに囲まれた。

握手。

祝福。

冗談。

質問。

自然と人が集まってくる。

それは今の彼の日常だった。

そこへアンドレアが現れた。

「やっと見つけた」

彼女はアイリンを抱きしめる。

そして少し離れて全身を見た。

「ああ」

「今夜あの子、絶対あなたのこと嫌いになるわね」

アイリンはため息をついた。

「その話?」

アンドレアは肩をすくめた。

視線の先には例の女性がいた。

バーの近くで同僚たちと話している。

綺麗だった。

洗練されていた。

努力していないように見える努力を完璧にしているタイプだ。

そして数分おきにダイレンを見ている。

アンドレアは声を落とした。

「私の勘違いかもしれないけど」

少し間。

「たぶん違う」

アイリンは静かにうなずいた。

怒りはない。

敵意もない。

ただ気づいているだけだった。

そしてそれが以前との違いだった。

やがて、その女性がこちらへ歩いてくる。

心の中でオスクリタが姿勢を正した。

「よし」

「物語が歩いて来たわ」

ダイレンも気づいた。

そしてアイリンは見た。

ほんの一瞬の変化を。

迷いではない。

罪悪感でもない。

選択だった。

ダイレンは自然にアイリンの手を握った。

ためらいもなく。

考える様子もなく。

ただ当たり前のように。

女性が近づく前に彼は言った。

「こちら、妻のアイリンです」


誇示するような言い方ではない。

見せつけるためでもない。

ただ事実を伝えただけ。

でも、それで十分だった。

空気が少し変わる。

境界線がはっきりする。

その後もダイレンは手を離さなかった。

人を紹介するときも。

会話をするときも。

別の同僚に呼ばれたときも。

親指が時々彼女の手の甲をなぞる。

ほんの小さな仕草。

でもアイリンには分かった。

ちゃんと見えている。

ちゃんと選ばれている。

そう伝わってきた。

少ししてアイリンは化粧直しのために化粧室へ向かった。



鏡の前。


ようやく一人になれる。



オスクリタが隣に現れる。


腕を組んだまま。



しばらくして口を開いた。



「あの子、本当に綺麗よね」



アイリンは鏡の中の自分を見る。



「そうね」



オスクリタがまばたきをした。


予想外の答えだったらしい。



アイリンはイヤリングを整えながら続ける。



「でも私は彼女と戦ってるわけじゃない」



静かな声だった。



「私が戦ってるのは」


少し間。



「隣にああいう人がいたら、自分が消えてしまうって思ってる私自身」



鏡の中の自分を見つめる。



子供の頃の自分じゃない。


高校生の頃の自分でもない。



今の自分だ。



「あなたが何を言ってもいい」


アイリンは言った。


「でも、最後に何を信じるかは私が決める」


オスクリタは珍しく何も言わなかった。

やがて昇進式が始まる。

拍手の中をダイレンがステージへ向かう。

自信に満ちている。

尊敬されている。

評価されている。

アイリンはその姿を見つめた。

不思議なことに、不安はなかった。

誇らしかった。

ただそれだけだった。

フラッシュが光る。

祝福の声が飛ぶ。

そしてダイレンは人混みの中を見渡した。

誰かを探している。

アイリンはすぐに分かった。

次の瞬間、彼の視線が彼女を見つける。

そして笑った。

その笑顔を見た瞬間。

胸の中で何かが静かに落ち着いた。

完全じゃない。

永遠でもない。

それでも十分だった。

帰宅した頃には街は静かになっていた。

ダイレンはネクタイを緩める。

そして彼女を見る。

ちゃんと。

まっすぐに。

「今日」

彼は静かに言った。

「見てたよ」

アイリンは少しだけ視線を落とす。

「大変だっただろ」

彼は近づいた。

「でも逃げなかった」

その言葉は思った以上に胸に響いた。

ダイレンは彼女の手を握る。

「君は、自信があるときの自分しか見えてないと思ってるかもしれない」

少し笑う。

「でも俺が好きなのは、そっちだけじゃない」

心の中でオスクリタが顔をしかめた。

「うわ」

「最悪」

アイリンは思わず笑ってしまう。

「最悪?」

「そうよ」

オスクリタは指を差した。

「そういう台詞は一生忘れられないやつなの」

アイリンはさらに笑った。

不安は消えていない。

でももう部屋全体を支配してもいなかった。

オスクリタは壁にもたれかかる。

「まあいいわ」

大きなため息。

「続編は生き延びた」

そして指を向ける。

「でも三作目があるなら追加料金だからね」



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