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大物になり始めたわね。注意深く観察しないと。

大物になり始めたわね。注意深く観察しないと。

昇進してからの一週間は、妙に騒がしく感じられた。

音が大きいわけではない。

人との関わりが増えたのだ。

ダイレンのスマホはほとんど鳴り止まなかった。お祝いのメッセージ、食事の誘い、打ち合わせの依頼。気軽な夕食会だったはずが、気づけば人脈づくりの場になっていることも珍しくない。

そして毎晩、ダイレンはそんな世界の一部を家まで持ち帰ってきた。

...

「今日のマーカス、聞いたら笑うぞ」

ある晩、ダイレンはネクタイを緩めながら玄関に鍵を置いた。

アイリンは夕食の仕上げをしていた。

「俺のプロジェクトを十分くらいかけて説明してくれたんだ」

アイリンは吹き出した。

「それ、いかにもマーカスね」

「だろ?」

ダイレンは笑いながら冷蔵庫を開ける。

「そのあと、『四半期の数字を見た時点で昇進は確定だと思ってた』って言われた」

...

心の中では、オスクリタがキッチンカウンターの上で足をぶらぶらさせていた。

「まあ大変」

大げさなため息。

「企業戦士ゴールデンレトリバーへの進化が始まってるわ」

...

ダイレンは水を取り出しながら話を続けた。

新しい案件。

新しいチャンス。

意見を求めてくる人たち。

時間を欲しがる人たち。

最近は誰もが彼を必要としているように見えた。

アイリンは鍋をかき混ぜながら耳を傾ける。

誇らしかった。

本当に。

問題はそこではない。

...

「そういえば、今日マネージャーの一人に言われたんだ」

ダイレンは笑った。

『君みたいな奥さんがいたら、誰だって頑張るよ』って」

...

アイリンも笑った。

でも、その時のダイレンの表情が少しだけ気になった。

傲慢さではない。

そんなものとは程遠い。

ただ、認められることへの素直な喜び。

それだけだった。

...

愛するということは、見えなくなることではない。

むしろ逆だ。

見たくないものまで見えてしまう。

...

昇進がダイレンを変えたわけではなかった。

少なくとも目に見える形では。

朝にはコーヒーを淹れてくれるし、無意識に彼女の手を探す癖も変わらない。

相変わらず優しい。

相変わらず思いやりがある。

...

それでも、彼の世界は少しずつ広がっていた。

新しい責任。

新しい機会。

新しい人間関係。

毎週のように何かが増えていく。

そしてアイリンは、初めて考えるようになっていた。

その世界の中で、自分はどこにいるのだろうと。

...

その夜、ダイレンはソファでメールを確認しながら今後の予定を話していた。

管理職向けの研修。

新しいプロジェクト。

来月の役員との会議。

彼の声には自然な熱があった。

カーテンを開けた時に差し込む朝日のように、部屋を満たしていく。

...

アイリンは静かに聞いていた。

ダイレンを失うのが怖いわけではない。

そうではなかった。

もっと説明しにくい感情だった。

...

もし、彼の世界がもっと大きくなったら?

そして私は、その中で居場所を見つけられなくなったら?

...

オスクリタが固まった。

ゆっくり。

本当にゆっくりと。

胸に手を当てる。

...

「えっ」

...

「今の、私じゃない」

...

アイリンは視線を落とした。

その通りだった。

その考えはオスクリタのものではない。

自分自身のものだ。

...

だからこそ怖かった。

...

翌朝、アイリンは仕事に没頭した。

それが一番効く。

仕事にはルールがある。

締切もある。

解決方法もある。

感情とは違う。

...

三台のモニターが机の上で光っている。

翻訳資料。

脚本の修正。

音声データ。

字幕のチェック。

ヘッドホンの中では、同じ台詞を俳優が何度も繰り返していた。

アイリンは再生を止め、字幕を修正し、うまく訳せていなかったジョークを書き直した。

それだけで少し落ち着く。

...

オスクリタがモニターを覗き込む。

「認めるわ」

腕を組む。

「字幕を直してる時のあなた、ちょっと怖い」

...

アイリンは笑いそうになった。

少しだけ。

...

彼女はこの仕事が好きだった。

注目されるからではない。

拍手されるからでもない。

ほとんどの人は、その存在すら意識しない。

...

それでも、物語は彼女を通して別の言語へ渡っていく。

登場人物たちは新しい声を手に入れる。

誰かが意味を繋ぎ続けるからだ。

...

それは価値のあることだった。

...

それでも。

...

ダイレンが交渉や会議、会社の大きな計画について話していると、自分の世界が少し小さく見える時があった。

価値がないわけではない。

ただ静かだった。

目立たないだけだ。

...

そして、それが気になる自分が嫌だった。

競争したいわけではないのに。

少なくとも、そうであってほしかった。

...

その夜、ダイレンは彼女の隣に座り、翻訳中の画面を眺めた。

「まだこの作品やってるのか?」

「うん」

...

彼はしばらく台詞を読んでいた。

そして笑う。

「これ、こっちの訳の方がいいな」

...

アイリンは顔を上げた。

「分かるの?」

...

ダイレンは不思議そうな顔をする。

「もちろん」

画面を指差した。

「別の言語で同じ物語を成立させるんだろ?」

肩をすくめる。

「俺には無理だな」

...

静かな沈黙が流れた。

気まずくはない。

ただ正直だった。

...

そしてアイリンは気づく。

ダイレンは彼女を尊敬している。

自然に。

疑いなく。

当たり前のように。

...

問題は彼が見ていないことではない。

問題は、自分自身がまだ見られていないことだった。

愛してくれる人の目を通して、自分を見ることができない。

...

オスクリタがゆっくりとサングラスを外した。

「うわ」

...

「なによ」

...

「また成長してるじゃない」

本気で嫌そうな顔をする。

「非常に迷惑なんだけど」

...

アイリンは吹き出しそうになった。

...

どうして他人の褒め言葉は信じられるのだろう。

どうして、よく知らない人からの評価の方が受け入れやすいのだろう。

そしてどうして、一番自分を知っている人の言葉だけを疑ってしまうのだろう。

...

ダイレンは再び画面を見る。

「あ、この台詞も好きだな」

...

アイリンは瞬きをした。

「ちゃんと読んでるの?」

...

「当たり前だろ」

...

胸の奥で何かが少しだけ動いた。

小さく。

繊細で。

でも確かに。

...

その夜。

ダイレンが眠ってからも、アイリンはしばらく起きていた。

天井には街灯の光が淡く映っている。

考え事だけが静かに続いていた。

...

窓際にはオスクリタが座っている。

珍しく静かだった。

冗談も言わない。

ただ考えている。

...

やがて口を開いた。

「何が一番怖いか知ってる?」

...

アイリンは天井を見つめたまま答える。

「なに?」

...

オスクリタは少し首を傾げた。

...

「いつかダイレンが、今よりもっと大きな世界を見つけること」

少し間を置く。

「そして、あなたがそこに居場所を見つけられなくなること」

...

アイリンは静かに息を飲んだ。

言葉になると、その恐れはあまりにも本物だった。

...

隣ではダイレンが少し寝返りを打つ。

眠ったまま手を伸ばす。

無意識に。

探すように。

...

そして彼の指はアイリンの手を見つけた。

そっと握る。

...

眠っていても。

それでも彼は彼女を探していた。

...

オスクリタはその様子を見つめる。

今回は冗談を言わなかった。

茶化しもしなかった。

否定もしなかった。

...

ただ静かに視線を逸らした。

まるで――

希望というものを、まだどう扱えばいいのか分からないみたいに。



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