順調すぎる。これは警戒したほうがいい
昇進祝いのパーティーまでは、まだ一か月あった。
その間にも、生活は止まらない。
仕事は増えた。
プロジェクトも増えた。
そしてダイレンの予定表には、気づけばさまざまな予定が並ぶようになっていた。
食事会。
交流会。
仕事の打ち合わせ。
昇進した人間には、そういうものが自然と集まってくるらしい。
…
アイリンはそれを少し離れた場所から見ていた。
そして素直に誇らしく思っていた。
本当に。
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昔は家具を一つ買うにも相談していた。
新しいコーヒーメーカーを買うべきか、本当に必要なのか。
そんな話をしていた頃もある。
今も楽なわけではない。
でも、確実に前へ進んでいた。
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最近のダイレンは以前よりずっと気を配ってくれていた。
彼女が何かを言えば耳を傾ける。
忙しくても会話を忘れない。
一緒にいる時間も大切にしてくれる。
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それは嬉しかった。
本当に。
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でも、一度向き合った不安が完全に消えるとは限らない。
時々それは、ただ静かになるだけだ。
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鏡を見るのが嫌だった少女は、今もどこかにいる。
誰かに傷つけられる前に、自分で自分を小さくしていた少女。
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もう彼女が人生を支配しているわけではない。
それでも、ときどき顔を出す。
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ある日の午後。
アイリンが翻訳の仕事を終えようとしていたとき、スマホが鳴った。
アンドレアだった。
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最初は普通の会話だった。
仕事のこと。
共通の友人のこと。
週末の予定。
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でも途中で、アンドレアが少しためらった。
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アイリンはすぐに気づいた。
「何?」
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アンドレアが小さくため息をつく。
「大したことじゃないの」
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それは大抵、大したことがあるときの前置きだった。
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「アンドレア」
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「本当に何も起きてないわ」
彼女はそう言った。
そして少し間を置いて続ける。
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「ただ、新しい子が会社に入ったの」
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アイリンは黙って待った。
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「それでね」
アンドレアは少し笑う。
「かなりダイレンに懐いてる」
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それだけだった。
大げさな話はない。
決めつけもない。
告げ口でもない。
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ただの観察。
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それなのに、電話を切ったあとも、その言葉は頭のどこかに残り続けた。
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心の中で、オスクリタがゆっくり顔を上げる。
「ほう」
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アイリンはその声を聞いた瞬間に察した。
「やめて」
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オスクリタは腕を組む。
「絶対やめない」
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少し間。
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「こういうのってね」
彼女は言う。
「“何も起きてない”から始まるのよ」
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「本当に何も起きてないじゃない」
…
「もちろん」
オスクリタはうなずく。
「今のところは」
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その夜。
アイリンはその話をダイレンにした。
責めるためではない。
ただ聞いてみたかっただけだ。
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ダイレンはキッチンテーブルでメールを確認していた。
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「アンドレアから聞いたんだけど」
アイリンが言う。
「会社に新しい子が入ったんだって?」
…
ダイレンは顔を上げた。
そして少し笑った。
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その反応で、誰のことか分かったらしい。
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「ああ」
彼はノートパソコンを閉じる。
「彼女か」
…
「アイリン、本当に何もないよ」
…
アイリンは急かさなかった。
ただ聞く。
…
ダイレンは首の後ろを軽くかいた。
…
「正直な話」
彼は言う。
「妹みたいな感じなんだ」
…
「妹?」
…
「うん」
彼はうなずいた。
「仕事の相談もしてくるし、プライベートの話もする」
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小さく肩をすくめる。
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「たぶん、頼れる人があまりいないんだと思う」
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その説明は自然だった。
誠実だった。
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だからこそ厄介だった。
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心の中で、オスクリタが目を細める。
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「ほら」
…
アイリンは何も言わなかった。
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何を言いたいのか分かっていたから。
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問題は、その子じゃない。
問題は、この状況が妙に見覚えのあるものだったことだ。
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証拠はない。
裏切りもない。
秘密もない。
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それでも、過去の記憶は勝手に反応する。
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数日後。
電話がかかってくるようになった。
最初は短かった。
仕事の質問。
相談事。
どれも不自然ではない。
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でも少しずつ増えていく。
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長くなる。
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時間も不規則になる。
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夕食の準備中。
テレビを見ているとき。
仕事が終わったはずの時間。
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ある晩も電話が鳴った。
ダイレンが画面を見る。
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アイリンは聞かなかった。
誰からか分かっていたから。
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彼女はそのまま食卓の準備を続けた。
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考えすぎないように。
勝手な物語を作らないように。
知らないことを決めつけないように。
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ダイレンは少し長く話していた。
隠れているわけじゃない。
声を潜めているわけでもない。
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ただ聞いている。
助けている。
相談に乗っている。
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心の中で、オスクリタが食卓の横に現れる。
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ダイレンを見る。
アイリンを見る。
またダイレンを見る。
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「ほら」
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アイリンはため息をついた。
「オスクリタ」
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「なによ」
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彼女は電話を指差した。
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「迷子の妹がまた来たわよ」
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思わず笑いそうになる。
少しだけ。
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そしてオスクリタが聞いた。
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「もし、あの子がダイレンを好きだったら?」
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その言葉が残る。
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正しいからじゃない。
間違っているからでもない。
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可能性だからだ。
…
昔のアイリンなら、その可能性に飲み込まれていただろう。
一つ一つの言葉を分析して。
視線を気にして。
沈黙の意味を探して。
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見えないものまで想像してしまったはずだ。
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でも今は違う。
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今回は暴走しなかった。
勝手な結論も作らなかった。
起きていない出来事を何時間も想像したりもしない。
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ただ見ている。
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気づいている。
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それだけだった。
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そして、それが以前との一番大きな違いだった。
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恐れではない。
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意識だ。
…
その夜。
電話が終わったあと、ダイレンが後ろからそっと抱きしめてきた。
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「長い一日だった?」
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アイリンは小さく笑う。
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「そんな感じ」
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心の中で、オスクリタはその様子を見ていた。
相変わらず疑い深そうに。
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「思ったより上手くやってるわね」
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アイリンはカップを洗いながら答える。
…
「そうかも」
…
オスクリタは首をかしげた。
珍しく小さく笑う。
…
「それが一番心配なのよ」




