うまくやったわね。ちょっと心配になってきた。
あの夜のあとも、胸の奥に残った違和感は消えなかった。
大きな問題ではない。
ダイレンを疑っているわけでもない。
それでも、アンドレアとの電話を思い出すたびに、何かが引っかかった。
昔のアイリンなら黙っていただろう。
「考えすぎだ」と自分に言い聞かせて。
何もなかったことにして。
でも今回は違った。
…
数日後の朝。
ダイレンは玄関で仕事の準備をしていた。
鍵をポケットに入れ、スマホを確認し、鞄の中をもう一度見直す。
いつもの朝。
いつもの光景。
アイリンは少し離れた場所からそれを見ていた。
話すなら今しかない。
そう思った。
…
心の中で、オスクリタが壁にもたれながら腕を組む。
「へえ」
少し感心したような声だった。
「今回は逃げないのね」
…
アイリンは小さく息を吐いた。
緊張しているわけではない。
ただ、覚悟を決めているだけだった。
…
「ダイレン」
彼はすぐに振り返った。
「ん?」
…
「少し話したいことがあるの」
…
ダイレンは迷わず鞄を床に置いた。
「もちろん」
その反応だけで、肩の力が少し抜ける。
…
アイリンは彼の近くまで歩いた。
「大したことじゃないの」
そう言ってから苦笑する。
「たぶん」
…
ダイレンも少し笑った。
「その“たぶん”が気になるな」
…
そのおかげで少しだけ話しやすくなった。
…
「最近、帰りが遅いでしょう?」
「うん」
「それと……アンドレアから少し聞いたの」
…
ダイレンの表情がわずかに変わる。
でも、防御的な顔ではなかった。
ただ真剣に話を聞こうとしている顔だった。
…
「会社でのこと?」
…
アイリンはうなずく。
「あなたが注目されてることとか」
「相談を持ちかけられたり」
「そういう話」
…
しばらく沈黙が続いた。
重い沈黙ではない。
言葉を探している沈黙だった。
…
「責めてるわけじゃないの」
アイリンは先に言った。
「あなたを信じてないわけでもない」
…
視線を落とす。
…
「ただ、私はそういうのに気づいてしまうから」
…
ダイレンは何も言わずに聞いていた。
そして少し考えるように首の後ろをかいた。
…
その仕草を見て、アイリンは少し安心する。
彼が本気で考えているときの癖だったから。
…
「正直に言うと」
ダイレンがゆっくり口を開く。
「そこまで気にしてるとは思ってなかった」
…
アイリンは小さく笑った。
「私も話すまで分からなかった」
…
それが本音だった。
口に出して初めて、自分が何を感じていたのか理解できた気がした。
…
心の中でオスクリタが目を細める。
「なるほど」
少し間。
「大人の会話って意外と退屈ね」
…
アイリンは無視した。
今回は本当に。
…
ダイレンはしばらく考えていた。
そして、少し申し訳なさそうに息を吐く。
…
「たぶん、慣れてたんだと思う」
…
「注目されることに?」
…
彼はうなずいた。
…
「欲しかったわけじゃない」
少し間を置く。
「ただ、気にしなくなってた」
…
その言葉は意外だった。
でも、嘘には聞こえなかった。
…
「俺にとっては、いつものことになってたのかもしれない」
ダイレンは続けた。
「でも、君にとってそうじゃないなら、ちゃんと考えないといけない」
…
アイリンはゆっくり息を吐いた。
胸の奥にあったものが、少しだけほどける。
…
心の中で、オスクリタが腕を組み直す。
「ふうん」
警戒した声。
「予想よりまともね」
…
「全部変えてほしいわけじゃないの」
アイリンは言った。
「ただ、こういうことを黙っていなきゃいけないって思いたくない」
…
ダイレンはすぐに首を振った。
…
「黙らなくていい」
…
彼は一歩近づいた。
…
「話してくれてよかった」
…
そこに言い争いはなかった。
責める言葉もない。
どちらかが勝つ必要もない。
…
ただ、ちゃんと伝わった。
…
「これからはもっと気をつける」
ダイレンは言った。
「会社での距離感も、曖昧にしないようにする」
…
完璧な答えではなかった。
でも、現実的だった。
だからこそ、信じられた。
…
心の中で、オスクリタはじっとその様子を見ていた。
どこか疑わしそうに。
…
「これは……」
少し間。
「機能的すぎて不安になるわね」
…
アイリンは思わず笑いそうになった。
…
(私、黙らなかった)
…
オスクリタが彼女を見る。
…
「ええ」
静かに認める。
「黙らなかった」
…
その言葉は、思っていたよりも深く胸に残った。
…
しばらく二人はそのまま立っていた。
朝の光が玄関に差し込んでいる。
外では車の音が遠くに聞こえた。
いつもの朝なのに、少しだけ違って見えた。
…
ダイレンがそっとアイリンの手を取る。
その温かさに、彼女はようやく肩の力を抜いた。
…
「あ」
彼が突然、思い出したように瞬きをする。
…
「そうだ。言い忘れてた」
…
アイリンが顔を上げる。
「何?」
…
ダイレンの顔に、抑えきれない笑みが浮かんだ。
…
「今日、昇進が正式に決まった」
…
一瞬、アイリンは何も言えなかった。
それから表情がぱっと明るくなる。
…
「ダイレン!」
思わず笑う。
「すごいじゃない!」
…
「うん」
彼も笑った。
でも、まだ少し信じられないような顔をしている。
…
「お祝いの集まりがあるんだ」
少し間。
「一緒に来てほしい」
…
彼は手を握ったまま言った。
…
「君にいてほしいんだ」
…
その瞬間、何かが静かに噛み合った。
アイリンは話した。
ダイレンは聞いた。
何もかも完璧に解決したわけではない。
…
でも初めて、
彼女は全部を一人で抱えなくてもいいのだと感じた。
…
そのことの方が、
答えそのものよりも大事に思えた。
…
心の中で、オスクリタは珍しく黙っていた。
ただ見ている。
考えている。
…
まるで、彼女自身も何かを学んだみたいに。
…
そしてたぶん、
それこそが一番落ち着かなかった。
…
だって今回は、
アイリンは本当にうまくやったから。
…
驚くほど。
ちゃんと。




