アドバイスしたのに、無視された。当然だけど。
——あの日から、少しずつ変わり始めていた。
…
教授が、まばたきをした。
アイリンが手を挙げたことが、
ちょっとした“事件”だったらしい。
「……はい?」
彼は言った。
彼女は答える。
正解。
当然。
二十五人分の視線が向く。
感心した顔。
面白くなさそうな顔。
そして——
ひとつ。
明らかに不機嫌な影。
彼女の肩の上で、ゆらゆらしている。
「ほらね」
私はつぶやく。
「これが始まりよ」
「何が?」彼女が小さく聞く。
私は少し笑う。
「危険な勘違い」
「自分は“できる人間かもしれない”って思い始めるやつ」
…
キャンパスは賑やかだった。
笑い声。足音。知らない声。
……正直、この空気は信用してない。
楽観的すぎるから。
アイリンは本を胸に抱えながら歩く。
落ち着いているふりをしている。
でも分かる。
あの感じ。
少しの期待と、ちゃんとした不安。
…
「余計なことは考えない」
彼女は自分に言い聞かせる。
「勉強して、卒業する。それだけ」
「へえ」
私はささやく。
「どうして人と関わろうとするの?」
少し間を置く。
「どうなるか、もう知ってるくせに」
…
アイリンはため息をつく。
「……やあ、オスクリタ」
また来たの?
って顔。
「当然でしょ」
私は肩をすくめる。
「初日よ?見逃すわけないじゃない」
少しだけ笑う。
「誰かが見てないと」
…
数週間が過ぎた。
アイリンは、うまくやっていた。
真面目で、ちゃんとしてて、
先生たちにもすぐに気に入られた。
でも——
本当に輝いていたのは、コートの上。
バレーボール。
彼女の逃げ場。
……ちょっと皮肉だけど。
普通、スポーツって公開処刑の場じゃない?
でも彼女は違った。
動く。跳ぶ。
迷いが消える。
…
「見て見て」
私は体育館の影からささやく。
「自信満々。勇敢。まるで別人」
「そうかもね」
彼女は汗をぬぐいながら言う。
「調子に乗らないで」
私は甘く笑う。
「どうせ続かないんだから」
少し間。
「今のうちに楽しんでおけば?」
「ここで待ってるから」
…
そのとき。
観客席から見ている男がいた。
ダイレン。
バスケ部のキャプテン。
周りは騒いでるのに、彼はほとんど見ていない。
ただ、彼女を見ていた。
集中してる姿。
動きの静けさ。
自分の努力に笑う、その感じ。
——覚え始めてる。
…
私はすぐに気づいた。
最悪。
ああいうの、一番面倒。
ロマンチック系トラブル。
いちばん厄介なやつ。
…
数日後。
キャプテンのアンドレアが近づいてきた。
「ねえアイリン、誰があなたのこと聞いてたと思う?」
「え?」
「ダイレン。バスケ部のキャプテン。会いたいって」
彼女は瞬きをする。
「私?間違いじゃない?」
「間違いじゃない。プレー、褒めてたよ」
…
その瞬間。
心が跳ねる。
そして——
影が落ちる。
…
「ほら来た」
私はやさしく言う。
「あなた、これに弱いのよね」
「何に?」
「誰かがあなたをちゃんと見てるって思い込むこと」
少し笑う。
「まあ、分かるけどね。気持ちいいもん」
…
「でも——」
声が少し低くなる。
「期待しすぎないで」
「恥かくだけだから」
…
「……私はそんなことしない」
彼女は言う。
歯を食いしばって。
…
「そうね」
私はうなずく。
「だから言ってるの」
「守ってあげてるのよ」
…
記憶が動く。
昔の午後。
鏡。ドライヤー。香水の匂い。
出かける準備。
…
誰かが耳元で言った。
「来るの?やめといたほうがいいよ」
「ちょっと地味だし、服も浮いてるし」
…
空気が重くなる。
アイリンは飲み込む。
…
「……行かない」
…
その夜。
私はベッドの端に座っていた。
「正解よ」
微笑みながら。
「行っても居場所なかったでしょ?」
「ここにいればいいの」
「安全だから」
…
現在。
ボールを握る手に力が入る。
…
「今回は、止められない」
…
私は笑う。
勇気ある言葉。
——だいたい、その直後に失敗するやつ。
…
「止める?」
私は首をかしげる。
「違うわよ」
「転ばないようにしてるだけ」
…
少し近づく。
「あなたの限界、ちゃんと覚えてるから」
…
その夜。
彼女は眠れなかった。
私は叫ばない。
押しもしない。
ただ——優しく包む。
一番痛い形で。
…
数日後。
彼女は練習を休んだ。
理由は「お腹が痛い」
本当は——不安。
…
アンドレアが訪ねてくる。
お茶と、まっすぐな笑顔。
「必要なの。あなたが」
「いないと違う」
…
アイリンは小さく言う。
「……まだ無理かも」
「じゃあ一緒に準備しよう」
アンドレアは言う。
「予選、一緒に出たい」
…
喉が詰まる。
「……ありがとう」
…
その夜。
湯気の向こうで、私は言う。
「少し優しくされただけで信じるの?」
「かわいいわね」
…
少しだけ間。
…
「でもね」
私は微笑む。
「壊れたら、拾うのは私よ」
「だから安心して」
「私は絶対にいなくならない」
…
彼女は窓に映る自分を見る。
「そうかもね」
小さく言う。
「でも今回は——止められない」
…
体育館。
アンドレアが彼女を連れていく。
そこに、ダイレンがいる。
…
心臓が速くなる。
…
「やあ」
彼が手を差し出す。
「ダイレン」
「アイリン…」
…
指先が少し触れる。
…
私はささやく。
「緊張してるじゃない」
「近づいたらバレるよ」
「本当のあなた」
…
ダイレンは話している。
でも彼女には、ほとんど聞こえていない。
感情と、私の声。
その間で揺れている。
…
別れたあと。
彼女は名前もあまり覚えていない。
私は隣で笑う。
「いい感じ」
「期待しなければ、傷つかない」
…
それから数日。
彼は何度も話しかけてくる。
挨拶。笑顔。
彼女は答える。
ぎこちなく。
そのたびに——中で戦い。
…
ある日。
彼が聞く。
「どうして挨拶しないの?」
…
彼女は視線を落とす。
「ごめん…」
…
「じゃあさ」
彼は笑う。
「明日はしてくれる?」
…
彼女はうなずく。
そして——
初めて、自然に笑った。
…
私は手すりの上から見ている。
「いい笑顔」
少しだけ、間を置く。
「壊れなきゃいいけど」
…
彼女は歩き続ける。
止まらない。
深く息を吸う。
…
「壊れるかもしれない」
小さな声。
「でも——隠れたくない」
…
私は二人を見る。
そして、ため息をつく。
…
「……これは」
少し考える。
…
「確実に、面倒なことになるわね」




