かんしゃくから生まれた私(なぜか居座ってる)
アイリンは、答えを知っていた。
——でも、言わなかった。
喉の奥に、言葉が引っかかっている。
あと少しで出てきそうなのに、出てこない。
手が、上がる。
少しだけ。
迷いながら。
——その瞬間。
「もし、間違ってたら?」
甘くて、静かな声。
指先が止まる。
教室の空気が、わずかに張りつめた。
ノートをめくる音。誰かの咳。教授の視線。
全部が、自分に向いている気がする。
「想像してみて」
声は続く。
「自信満々で、的外れなことを言ったときの空気」
……
手が、下がる。
ゆっくりと。
ああ。
バランスは、元通り。
——ちなみに。
今の声、私。
…
いい質問だと思うよ。
「今の、誰の声?」ってやつ。
答えは簡単。
……でも、少しだけ面倒。
…
あれは、雨の午後だった。
アイリンは母親と口論したばかり。
涙。ドアの音。重たい沈黙。
よくあるやつ。
感情の嵐ってやつ。
ベッドの上で丸くなりながら、彼女は思っていた。
——誰も、分かってくれない。
そのとき、私は生まれた。
小さくて、不安定で、まだ形も曖昧で。
傷ついた気持ちと、少しの意地と、
「もう何も感じたくない」っていう願い。
そういうものでできてる。
別に、なりたくてなったわけじゃない。
気づいたら、そこにいた。
光の中に浮かぶ埃みたいに。
……まあ、もう少し魅力的だけど。
…
「いらないよ」
私は言った。
試すみたいに。
自分の声を。
アイリンが顔を上げる。
「……今の、誰?」
「私」
軽く宙に浮かびながら答える。
「あなたの——そうね、感情サポート?」
「サポート?」
「そう。これ以上、傷つかないためのね」
「どうやって?」
私は肩をすくめた。
「簡単。全部うまくいかないって教えてあげるの」
彼女は眉をひそめる。
「それってサポートなの?」
「現実的なサポートよ」
アイリンはため息をついて、ベッドに沈んだ。
追い出されなかった。
——それが、私の最初の勝ち。
…
しばらくして、祖母が部屋に入ってきた。
手には、湯気の立つお茶。
ジャスミンの香り。
「これを飲みなさい。落ち着くから」
優しい声。
そして、こう言った。
「闇はね、怖がるから大きく見えるの。名前をつければ、ちゃんと見えるようになる」
……
ちょっと失礼じゃない?
闇に対する扱いとしては。
祖母って、本当に影に厳しいよね。
…
それから、アイリンは私に名前をつけた。
オスクリタ。
かわいい名前。
でも誤解しないで。
私はただの可愛い存在じゃない。
リボンをつけた混乱。
…
私は、いつも現れる。
不安なとき。
迷うとき。
自分が足りないと感じるとき。
つまり——
出番は多い。
…
でもアイリンは成長した。
人間って、本当に面倒くさい。
大学に入ってから、私の言うことを疑い始めた。
……気に入らない。
…
バレーボールの初日。
太陽は強い。
足は震えてる。
私は、いつもの場所。
左肩。
「本気?」
彼女が膝当てを直しているとき、私は言った。
「考えもまとまってないのに、ボールなんて扱えると思ってるの?」
「うるさい」
小さな声。
「無理よ。私はあなたの思考なんだから」
私はいわば——
リスク管理担当。
悲観的?
違う。現実的。
——しかも、だいたい当たってる。
…
彼女は深呼吸した。
無視。
……
それが一番、気に入らない。
その目。
妙に落ち着いてる。
嫌な予感。
…
そのとき。
彼女が目を閉じた。
そして——
あの声。
祖母の声。
「あなたはそのままで十分よ」
……
音量が下がる。
私の。
まるで光に押し戻されるみたいに。
……
最悪。
こんな言葉で黙らされるなんて。
…
アイリンは微笑んだ。
そして——
初めて、私を置いていった。
…
まあ。
長くは続かない。
自信なんて、賞味期限が短いから。
…
その日の午後。
彼女は廊下を歩いていた。
一人で。
私は隣にいる。
何も言わずに。
……
珍しく。
…
「もう黙らない」
彼女が言った。
「はいはい」
私は答える。
「もっと大きな声で言ってみたら?不安にも聞こえるように」
「もう負けない」
「負ける?これはゲームじゃない。自己防衛よ」
「違う。これは恐れ」
……
言葉が出なかった。
——珍しく。
…
その夜。
彼女はノートに何かを書いていた。
静かな光の中で。
私は近づく。
「何してるの?」
「約束」
「明日、手を上げる」
少し間。
「あなたが震えても」
……
私は立ち止まる。
よく分からない。こういう感覚。
だから、とりあえず言う。
「転んだら笑うから」
彼女は微笑む。
「いいよ」
…
誰にも見えない場所で、私は隣に座った。
光の中に。
影なのに。
……
隠れたくなかった。
…
次の日。
同じ教室。
同じ質問。
同じ状況。
…
彼女は、また答えを知っていた。
手が上がる。
私はささやく。
「さて——どうなるかしらね」
…
今度は——
下がらなかった。
…
……
これ、ちょっとまずいかも。
——だって。
私の出番、減っちゃう。




