これ、終わりみたい。……たぶん違うけど
月日は過ぎていった。
急にじゃない。
はっきり分かる形でもない。
でも——
気づけば、いろんなものが少しずつ“現実”になっていた。
…
生活にもリズムができ始める。
アイリンは吹き替えと翻訳の仕事を始め、少しずつ自分の居場所を見つけていった。
自分の声。
自分のペース。
ちゃんと、自分で立てる感覚。
…
ダイレンのほうは、もっと速く進んでいた。
新しい責任。
昇進。
長い残業。
増えていくプレッシャー。
それでも——
彼は前より迷わなくなっていた。
…
そんな日々の間に、
二人は少しずつ“未来”を作っていった。
最初は、小さな予定。
次は、もっと先の話。
“いつか”って言っていたものが、
気づけば、“本当に来るもの”になっていた。
…
その日。
ダイレンが見せてくれた部屋に、アイリンは先に入った。
静かだった。
少し静かすぎるくらいに。
…
ソファ。
小さなテーブル。
灯されたキャンドルが二本。
そして——空間。
やたら広く感じる空間。
…
心の中で、オスクリタが即座に現れる。
「なるほど」
部屋を見回す。
「ミニマリズム度数、高めね」
少し間。
「最近まで金欠だった感がすごい」
…
アイリンは吹き出しそうになるのをこらえた。
…
「つまり?」
オスクリタが腕を組む。
「私たち、感情と想像上の家具だけで未来を築く予定なの?」
…
アイリンはゆっくり部屋を見回す。
「ダイレン……ここ……」
言葉が止まる。
…
オスクリタが顔を近づける。
「言いなさいよ」
真顔。
「今、“カップ麺生活何年コースか”計算してるでしょ」
…
ダイレンが一歩近づく。
そっと彼女の髪に触れる。
…
「まだ何も揃ってないけど」
彼は静かに言った。
「でも、これから作るもの全部——」
視線が重なる。
「君と作りたい」
…
完璧な言葉じゃなかった。
準備された感じもない。
だからこそ——
ちゃんと本物だった。
…
「怖がらなくていい」
彼はやわらかく続ける。
「俺は、ちゃんとここにいるから」
…
アイリンの胸の奥が、少しだけ重くなる。
怖いわけじゃない。
ただ——
“本当に現実なんだ”って、体が理解したみたいだった。
…
その時だけ、
オスクリタはすぐに口を挟まなかった。
ただ、静かに見ている。
…
そして。
ダイレンがポケットに手を入れる。
…
アイリンの呼吸が止まる。
…
オスクリタが勢いよく起き上がる。
「もし鍵だったら帰るわよ」
少し間。
「指輪なら……まあ、今回はドラマ許可する」
…
ダイレンは少し距離を取る。
それから——
迷わず膝をついた。
ためらいはなかった。
不安もない。
ただ、まっすぐだった。
…
「結婚してくれる?」
…
世界が静かになる。
部屋じゃない。
時間でもない。
彼女の中だけが、静かになった。
…
ほんの一瞬。
アイリンは動けなかった。
…
愛していないからじゃない。
望んでいないからでもない。
…
ただ、
この意味を理解してしまったから。
…
これは“瞬間”じゃない。
選択だった。
未来だった。
自分の人生を、自分で決めるということだった。
…
心の中で、オスクリタがようやく口を開く。
からかう声じゃない。
鋭い声でもない。
ただ、正直な声。
…
「うわ」
小さく言う。
「これは軽いイベントじゃないわね」
少し間。
「しかも今回は、綺麗に逃げられる感じでもない」
…
アイリンはゆっくり息を吐く。
心臓が落ち着いていく。
完璧じゃない。
でも——十分だった。
…
「……はい」
やわらかく。
でも、ちゃんと確かに。
「お願いします」
…
ダイレンの表情が、一瞬でほどけた。
安心した顔。
少しだけ泣きそうな顔。
…
彼は立ち上がり、そのまま彼女にキスをする。
あたたかくて。
少し不器用で。
でも、本物だった。
…
キャンドルの火が揺れる。
壁に映る影も、静かに揺れていた。
…
心の中で、オスクリタが見えないソファに倒れ込む。
「はあ?」
天井を見る。
「婚約?」
長いため息。
「急展開にもほどがあるでしょ」
…
アイリンはダイレンの肩にもたれたまま、小さく笑った。
完璧だからじゃない。
ちゃんと現実だったから。
…
その夜は、全部がゆっくりだった。
急ぐ必要がない。
騒がしさもない。
ただ、二人だけ。
話して。
笑って。
近くにいて。
…
アイリンは彼の胸に頭を預ける。
指を絡めながら、静かに目を閉じた。
…
長い間ずっと、
幸せを追いかけている気がしていた。
でも今は違う。
ようやく、その中にいる。
…
心の中で、オスクリタがだらっと伸びをする。
「見てよ」
ぼそっと言う。
「幸せ。安定。情緒も正常」
少し間。
「かなり怪しい状態ね」
…
アイリンは小さく笑った。
…
「まあ許すけど」
オスクリタは続ける。
「管理する感情トラブル減るし」
また少し間。
「でも、安心しすぎないでよね」
…
アイリンは薄く目を開ける。
「どうして?」
小さな声。
…
オスクリタはゆっくり首をかしげた。
意地悪じゃない。
ただ、分かっている顔。
…
「だって」
やわらかく言う。
「あなた、まだ“あなた”だもの」
…
静かな沈黙が落ちる。
重くもなく。
軽すぎもせず。
ただ、正直な沈黙。
…
アイリンはもう一度目を閉じた。
この瞬間を、無理に掴もうとはしなかった。
コントロールもしない。
先を決めつけもしない。
ただ——選んでいた。
…
オスクリタは消えない。
最初から、ずっとそう。
…
ただ静かに、後ろへ寄りかかって見ている。
…
「まあ」
最後に小さくつぶやく。
…
「これはこれで、面白くなりそうね」




