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これは美しいか、完全な感情トラップかのどっちか

朝が来るのが早すぎた。

――いや。

たぶん、アイリンはほとんど眠れていなかった。

部屋の中は静かだった。

布の擦れる音。

後ろで静かに動くアンドレアの気配。

鏡の近くには花が置かれている。

階下では、もう誰かが笑っていた。

家全体が起きている感じ。

……起きすぎてる。

アイリンは鏡の中の自分を見つめた。

白いドレス。

やわらかなメイク。

丁寧に整えられた髪。

まるで、自分が何をしているのかちゃんと分かっている人みたいだった。

――それが逆に怖い。

心の中では、オスクリタが化粧台の上に偉そうに座っていた。

「へえ」

上から下まで眺めながら言う。

「このレベルの感情的安定、かなり怪しいわね」

アイリンは答えない。

後ろでアンドレアが小さく笑った。

「緊張してる?」

「してない」

アイリンは即答した。

完全に嘘だった。

オスクリタが大げさに息を呑む。

「素晴らしいわ」

腕を広げる。

「最高のスタートね。朝一番から否認モード」

アイリンはゆっくり息を吐く。

「ただ……」

少しだけ声が弱くなる。

「大きすぎる感じがして」

アンドレアの表情がすぐに柔らかくなった。

「だって実際、大きい日だもの」

少し沈黙が落ちる。

気まずくはない。

ただ――満ちていた。

アイリンはもう一度、鏡を見る。

そして突然――

ほんの一瞬だけ。

恐ろしいくらい鮮明に。

十四歳の自分がいた。

細い肩。

放課後。

笑っている女子グループ。

一人が冗談っぽく笑いながら言う。

「ねえ、彼氏に頼んで友達紹介してもらおうか?」

周りがすぐに笑う。

「そうしないと一生独身じゃない?」

別の声。

「修道女みたいになるかもね」

また笑い声。

露骨に悪意があるわけじゃない。

だから余計に痛かった。

透明みたいだった。

足りない。

誰かに選ばれるタイプじゃない。

胸がきゅっと締まる。

オスクリタはすぐ気づいた。

顔から皮肉が消える。

「ねえ」

静かな声。

アイリンは一度まばたきをする。

もう一度。

景色が消えた。

残ったのは、白いドレスを着た今の自分だけ。

「大丈夫?」

アンドレアが優しく聞く。

アイリンは少し早すぎるくらいにうなずいた。

「うん」

オスクリタが腕を組む。

「感情崩壊まであと三秒って感じだけど、一応まだ機能してるわね」

アンドレアはそっとベールを整えながら言った。

「でもね」

少し笑う。

「怖そうには見えないよ」

アイリンは唾を飲み込む。

「それは……必死に隠してるから」

アンドレアは首を振った。

「違う」

少し間。

そして静かに。

「愛されてる顔してる」

その言葉は、思った以上に深く刺さった。

心の中で、オスクリタが顔をしかめる。

「うわ」

小さくつぶやく。

「今のかなり効いたわね」

間。

「感情的には満点。でも気持ち悪い」

階下から、音楽が聞こえ始める。

誰かがアンドレアを呼んだ。

式が始まる。

アイリンの鼓動が急に大きくなる。

速い。

うるさい。

リアルすぎる。

オスクリタが化粧台から立ち上がる。

「さて」

指をドアへ向ける。

「公開感情契約セレモニーの時間よ」

少し間。

「返品不可だから覚悟して」

アイリンは緊張したまま笑った。

そして、深く息を吸う。

そのまま階段を下りていった。

式場は豪華ではなかった。

でも、それが逆に温かかった。

やわらかい灯り。

家族が飾った花。

並んだ見慣れた顔。

静かな話し声。

待っている空気。

その瞬間。

ダイレンが顔を上げた。

そして――一瞬、呼吸を忘れた。

彼の表情から、他の全部が消える。

見せるための笑顔じゃない。

完璧な表情でもない。

ただ――

信じられない、という顔。

彼女が本当に自分を選んだことを、まだ理解しきれていないみたいに。

オスクリタが固まる。

「……あっ」

アイリンはゆっくり歩き続ける。

「これはダメね」

オスクリタが額を押さえる。

「あの男、“幸せ”を発明した人を見る顔してる」

アイリンは、泣きそうになりながら少し笑った。

式の途中から、世界は少しぼやけていた。

言葉。

誓い。

触れ合う指先の震え。

全部が遠くて。

でも、痛いくらい近かった。

そして――

誓いの言葉。

先に口を開いたのはダイレンだった。

迷いはない。

完璧に用意された言葉でもない。

ただ、本音。

「お前といると、人生が静かになる」

優しく言う。

アイリンの目が少し見開く。

ダイレンが小さく笑った。

「いい意味で」

オスクリタがゆっくりまばたきをする。

「へえ」

少し間。

「思ったよりちゃんとしてたわね」

今度はアイリンの番。

心臓の音で、自分の考えが聞こえなくなりそうだった。

ほんの一瞬。

怖くなる。

彼が怖いんじゃない。

全部見られることが怖い。

それでも、ここに残ることが。

オスクリタが隣に立つ。

もう茶化さない。

ただ、そこにいた。

「今ならまだ劇的に逃げられるわよ」

小声でささやく。

少し間。

「私はちょっと尊敬する」

アイリンは小さく笑った。

それから、まっすぐダイレンを見る。

胸の奥が少しだけ落ち着いた。

完璧じゃない。

永遠でもない。

でも――十分だった。

「ずっと思ってたの」

静かな声。

「愛されるのって、きっと“誰か別の人”なんだって」

部屋が静かになる。

「でも、あなたは残ってくれた」

指先に少し力が入る。

「それで……見られることが、少し怖くなくなった」

オスクリタが大げさに後ずさる。

「うわぁ」

口元を押さえる。

「本気の感情を人前で言い始めた」

ダイレンは、胸に収まりきらないみたいな顔で笑っていた。

そして――

ようやく。

二人はキスをした。

拍手がすぐに広がる。

温かくて。

うるさくて。

感情だらけの音。

オスクリタが周囲を suspiciousそうに見回す。

「幸せな人、多すぎない?」

少し間。

「危険な空間だわ」

その夜。

音楽も、写真も、終わらない親戚トークも全部落ち着いたあと。

アイリンは少しだけ外に出た。

静かな空気。

冷たい風。

やっと来た静けさ。

その隣に、オスクリタが現れる。

珍しく、すぐには誰も話さなかった。

「ねえ」

アイリンが小さく言う。

「今日、嫌がると思ってた」

オスクリタは心外そうな顔をした。

「嫌だった部分はいくつもあるわよ」

少し間。

「花、多すぎたし」

アイリンが静かに笑う。

それから。

オスクリタの表情がほんの少しだけ柔らかくなる。

「でも」

会場の灯りを見る。

「幸せそうだった」

少し間。

「本当に」

アイリンの胸がまた締まる。

でも今度は優しく。

「残ってくれたんだね」

小さくつぶやく。

オスクリタは即座に目を細めた。

「当たり前でしょ」

肩をすくめる。

「私は物語の構造そのものなんだから」

アイリンは今度こそ声を出して笑った。

それから、会場のほうを見る。

待っているダイレン。

まだ怖がりながら進んでいる未来。

そして初めて――

未来が、自分を追いかけてくるものじゃなくなっていた。

自分から歩いていける場所みたいに思えた。



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