これは美しいか、完全な感情トラップかのどっちか
朝が来るのが早すぎた。
――いや。
たぶん、アイリンはほとんど眠れていなかった。
…
部屋の中は静かだった。
布の擦れる音。
後ろで静かに動くアンドレアの気配。
鏡の近くには花が置かれている。
階下では、もう誰かが笑っていた。
家全体が起きている感じ。
……起きすぎてる。
…
アイリンは鏡の中の自分を見つめた。
白いドレス。
やわらかなメイク。
丁寧に整えられた髪。
まるで、自分が何をしているのかちゃんと分かっている人みたいだった。
――それが逆に怖い。
…
心の中では、オスクリタが化粧台の上に偉そうに座っていた。
「へえ」
上から下まで眺めながら言う。
「このレベルの感情的安定、かなり怪しいわね」
アイリンは答えない。
…
後ろでアンドレアが小さく笑った。
「緊張してる?」
「してない」
アイリンは即答した。
完全に嘘だった。
…
オスクリタが大げさに息を呑む。
「素晴らしいわ」
腕を広げる。
「最高のスタートね。朝一番から否認モード」
…
アイリンはゆっくり息を吐く。
「ただ……」
少しだけ声が弱くなる。
「大きすぎる感じがして」
…
アンドレアの表情がすぐに柔らかくなった。
「だって実際、大きい日だもの」
…
少し沈黙が落ちる。
気まずくはない。
ただ――満ちていた。
…
アイリンはもう一度、鏡を見る。
そして突然――
ほんの一瞬だけ。
恐ろしいくらい鮮明に。
十四歳の自分がいた。
細い肩。
放課後。
笑っている女子グループ。
…
一人が冗談っぽく笑いながら言う。
「ねえ、彼氏に頼んで友達紹介してもらおうか?」
周りがすぐに笑う。
「そうしないと一生独身じゃない?」
別の声。
「修道女みたいになるかもね」
また笑い声。
…
露骨に悪意があるわけじゃない。
だから余計に痛かった。
…
透明みたいだった。
足りない。
誰かに選ばれるタイプじゃない。
…
胸がきゅっと締まる。
…
オスクリタはすぐ気づいた。
顔から皮肉が消える。
「ねえ」
静かな声。
…
アイリンは一度まばたきをする。
もう一度。
景色が消えた。
残ったのは、白いドレスを着た今の自分だけ。
…
「大丈夫?」
アンドレアが優しく聞く。
アイリンは少し早すぎるくらいにうなずいた。
「うん」
…
オスクリタが腕を組む。
「感情崩壊まであと三秒って感じだけど、一応まだ機能してるわね」
…
アンドレアはそっとベールを整えながら言った。
「でもね」
少し笑う。
「怖そうには見えないよ」
…
アイリンは唾を飲み込む。
「それは……必死に隠してるから」
…
アンドレアは首を振った。
「違う」
少し間。
そして静かに。
「愛されてる顔してる」
…
その言葉は、思った以上に深く刺さった。
…
心の中で、オスクリタが顔をしかめる。
「うわ」
小さくつぶやく。
「今のかなり効いたわね」
間。
「感情的には満点。でも気持ち悪い」
…
階下から、音楽が聞こえ始める。
誰かがアンドレアを呼んだ。
式が始まる。
…
アイリンの鼓動が急に大きくなる。
速い。
うるさい。
リアルすぎる。
…
オスクリタが化粧台から立ち上がる。
「さて」
指をドアへ向ける。
「公開感情契約セレモニーの時間よ」
少し間。
「返品不可だから覚悟して」
…
アイリンは緊張したまま笑った。
そして、深く息を吸う。
…
そのまま階段を下りていった。
…
式場は豪華ではなかった。
でも、それが逆に温かかった。
やわらかい灯り。
家族が飾った花。
並んだ見慣れた顔。
静かな話し声。
待っている空気。
…
その瞬間。
ダイレンが顔を上げた。
そして――一瞬、呼吸を忘れた。
…
彼の表情から、他の全部が消える。
見せるための笑顔じゃない。
完璧な表情でもない。
ただ――
信じられない、という顔。
彼女が本当に自分を選んだことを、まだ理解しきれていないみたいに。
…
オスクリタが固まる。
「……あっ」
アイリンはゆっくり歩き続ける。
「これはダメね」
オスクリタが額を押さえる。
「あの男、“幸せ”を発明した人を見る顔してる」
…
アイリンは、泣きそうになりながら少し笑った。
…
式の途中から、世界は少しぼやけていた。
言葉。
誓い。
触れ合う指先の震え。
全部が遠くて。
でも、痛いくらい近かった。
…
そして――
誓いの言葉。
…
先に口を開いたのはダイレンだった。
迷いはない。
完璧に用意された言葉でもない。
ただ、本音。
…
「お前といると、人生が静かになる」
優しく言う。
アイリンの目が少し見開く。
ダイレンが小さく笑った。
「いい意味で」
…
オスクリタがゆっくりまばたきをする。
「へえ」
少し間。
「思ったよりちゃんとしてたわね」
…
今度はアイリンの番。
心臓の音で、自分の考えが聞こえなくなりそうだった。
…
ほんの一瞬。
怖くなる。
彼が怖いんじゃない。
全部見られることが怖い。
それでも、ここに残ることが。
…
オスクリタが隣に立つ。
もう茶化さない。
ただ、そこにいた。
…
「今ならまだ劇的に逃げられるわよ」
小声でささやく。
少し間。
「私はちょっと尊敬する」
…
アイリンは小さく笑った。
それから、まっすぐダイレンを見る。
胸の奥が少しだけ落ち着いた。
完璧じゃない。
永遠でもない。
でも――十分だった。
…
「ずっと思ってたの」
静かな声。
「愛されるのって、きっと“誰か別の人”なんだって」
部屋が静かになる。
「でも、あなたは残ってくれた」
指先に少し力が入る。
「それで……見られることが、少し怖くなくなった」
…
オスクリタが大げさに後ずさる。
「うわぁ」
口元を押さえる。
「本気の感情を人前で言い始めた」
…
ダイレンは、胸に収まりきらないみたいな顔で笑っていた。
…
そして――
ようやく。
二人はキスをした。
…
拍手がすぐに広がる。
温かくて。
うるさくて。
感情だらけの音。
…
オスクリタが周囲を suspiciousそうに見回す。
「幸せな人、多すぎない?」
少し間。
「危険な空間だわ」
…
その夜。
音楽も、写真も、終わらない親戚トークも全部落ち着いたあと。
アイリンは少しだけ外に出た。
静かな空気。
冷たい風。
やっと来た静けさ。
…
その隣に、オスクリタが現れる。
珍しく、すぐには誰も話さなかった。
…
「ねえ」
アイリンが小さく言う。
「今日、嫌がると思ってた」
…
オスクリタは心外そうな顔をした。
「嫌だった部分はいくつもあるわよ」
少し間。
「花、多すぎたし」
…
アイリンが静かに笑う。
…
それから。
オスクリタの表情がほんの少しだけ柔らかくなる。
…
「でも」
会場の灯りを見る。
「幸せそうだった」
少し間。
「本当に」
…
アイリンの胸がまた締まる。
でも今度は優しく。
…
「残ってくれたんだね」
小さくつぶやく。
…
オスクリタは即座に目を細めた。
「当たり前でしょ」
肩をすくめる。
「私は物語の構造そのものなんだから」
…
アイリンは今度こそ声を出して笑った。
…
それから、会場のほうを見る。
待っているダイレン。
まだ怖がりながら進んでいる未来。
…
そして初めて――
未来が、自分を追いかけてくるものじゃなくなっていた。
自分から歩いていける場所みたいに思えた。




