「もう乗り越えたって、言ってなかった?」
ダイレンは、一年前に卒業していた。
アンドレアも。
それなのに、大学では今でも二人の名前が普通に話題に上がる。
特に——ダイレン。
…
最初は、少し楽になると思っていた。
ダイレンが毎日キャンパスにいない生活。
最後の一年は、もっと静かになるはずだった。
アイリンは授業に集中した。
バレー。
課題。
締め切り。
眠れない夜。
ほかの学生たちと同じように、卒業までなんとか生き延びようとしていた。
…
でも、ダイレンは時々大学に来た。
そして、そのたびに——
空気が変わる。
…
彼は、少し変わっていた。
大人っぽくなった。
派手じゃない。
ただ——自然に落ち着いた感じ。
いい仕事。
車。
前より洗練された服装。
昔みたいに“目立とう”としていないのに、
なぜか、前よりずっと目立ってしまう。
…
チアリーダーたちは、彼が体育館の近くに現れるたびすぐ気づいた。
特にヴィヴィアンは。
彼女もまだ大学に残っていた。
アイリンと同じ、最後の一年。
相変わらず綺麗で、
遠くから見ると完璧で、
そして——相変わらず見ていた。
…
「ほんと謎なんだけど」
練習中、誰かが小さく言った。
でも、聞こえないほど小さくはなかった。
「なんでダイレン、あの子なの?」
笑い声。
「もっと可愛い子、いくらでもいるじゃん」
「静かな子が好きなんじゃない?」
「静かっていうか、ほとんど喋らなくない?」
「そこじゃない?」
…
アイリンは聞こえていないふりをした。
ストレッチを続ける。
でも、体育館の光が急に眩しく感じる。
…
心の中で、オスクリタがゆっくりサングラスを下げた。
「ああ、出た」
落ち着いた声。
「人類伝統芸能、“見えない傷はノーカウント”」
…
別の声が続く。
「あの子、普通すぎるんだよね」
…
悪意は強くない。
だからこそ、刺さる。
…
オスクリタが首をかしげる。
「面白いわね」
アイリンは床を見たまま。
「何が」
「“普通”って言葉って、だいたい“無視されるのが怖い人”が使うのよ」
…
ホイッスルが鳴る。
練習再開。
跳ぶ。
打つ。
ブロック。
呼吸。
考えない。
…
でも、その日の午後。
ダイレンが体育館に現れた。
そしていつものように——
空気が変わる。
…
女の子たちが姿勢を直す。
笑い声が大きくなる。
通り過ぎる人まで、つい彼を見る。
…
アイリンは、自分の胸まで反応したことが嫌だった。
もう、ダイレンを疑っているわけじゃない。
問題はそこじゃない。
…
問題は、
どうして“あんな人”が、自分を選ぶのか。
まだ時々、分からなくなること。
…
ダイレンはすぐに彼女を見つけた。
当然みたいに。
その表情が、少し柔らかくなる。
それだけで、まだ正常に思考できなくなる自分が悔しい。
…
彼はまっすぐ彼女のほうへ歩いてくる。
周りじゃなく。
彼女へ。
…
「よう」
「……やあ」
…
ダイレンは自然に彼女の額へキスした。
まるで当たり前みたいに。
その瞬間、後ろで小さな悲鳴みたいなざわめきが起きる。
…
オスクリタが遠い目をした。
「はいはい」
疲れた声。
「観客、再集合」
…
ダイレンはすぐ気づいた。
アイリンの空気が少し変わったことに。
…
「大丈夫?」
「うん」
即答。
速すぎる。
…
彼の目が少し細くなる。
疑っているわけじゃない。
心配している。
それが余計につらい。
…
「ほんとに?」
…
アイリンはもう一度うなずく。
「大丈夫」
…
オスクリタがじっと見る。
そして、ゆっくり。
「興味深いわね」
アイリンはその声を知っている。
「今の、“感情崩壊直前モード”の声よ」
…
ダイレンはやさしく彼女の手を握った。
あたたかい。
落ち着く。
本物。
…
「会いたかった」
彼が静かに言う。
それだけで——
胸の奥がまたやわらかくなる。
正直、少しずるい。
…
卒業式のリハーサル中。
アイリンは、向こうからヴィヴィアンがこちらを見ていることに気づいた。
怒っているわけじゃない。
劇的でもない。
ただ——理解できない顔。
…
どうしてダイレンが、何度もアイリンを選ぶのか。
本気で分からないみたいに。
…
そして、一番苦しかったのは——
時々、アイリン自身も分からなくなることだった。
…
卒業式当日。
講堂はざわついていた。
カメラ。
花束。
緊張した笑い声。
…
アイリンは震える指でガウンを整える。
ダイレンが隣で、少し曲がった袖を直してくれた。
…
「今日、すごく綺麗」
彼が小さく言う。
…
アイリンは、止める前に笑ってしまった。
…
オスクリタが盛大にうめく。
「はい出た」
胸に手を当てる。
「仕事できるイケメン彼氏、再び」
…
アイリンは笑いそうになる。
でも、その瞬間——
…
「ダイレン!」
後ろから女の子たちが駆け寄ってくる。
笑顔。
スマホ。
近い距離。
…
「写真いい?」
「やば、さらにかっこよくなってない?」
「もう昇進したってほんと?」
…
その瞬間。
来た。
あの感覚。
もう終わったと思っていたやつ。
…
アイリンの手が、少しだけ離れる。
ほんの少し。
でも——
ダイレンは気づいた。
すぐに。
…
彼は女の子たちより先に、振り返る。
そして自然に、
もう一度、彼女の手を握った。
今度は、はっきりと。
…
「アイリン」
彼の声は静かだった。
目がまっすぐ彼女を見る。
周りの音が、少し遠くなる。
…
「そんなの、どうでもいいって分かってるだろ?」
…
アイリンは固まる。
信じていないわけじゃない。
もう、それは問題じゃない。
…
問題なのは、
傷がまだ残っていることだった。
…
心の中で、オスクリタが静かに見ている。
今回は、冗談を言わない。
…
そして、小さく。
「もう乗り越えたって、言ってなかった?」
…
アイリンは息を飲む。
胸が少し締まる。
壊れるほどじゃない。
でも、思い出すには十分だった。
…
「それなのに」
オスクリタが静かに続ける。
「……またここにいる」




