これは絶対に悪い考え。でも——やる気らしい
ダイレンはもう試合に戻っていた。
集中している。
落ち着いている。
まるで、何もなかったみたいに。
でも——あった。
二人とも、それを分かっている。
…
最初は、偶然みたいだった。
コート越しに視線が合う。
ほんの少し長いだけ。
無視できる程度。
気のせいで済ませられる程度。
…
二回目は、違った。
今度は偶然じゃない。
ダイレンは目をそらさなかった。
そして——アイリンも。
…
アイリンが最初に気づいたのは、ダイレンの言葉じゃなかった。
彼が“しなくなったこと”。
避けない。
距離を作らない。
何かに隠れようとしない。
ただ、そこにいる。
ちゃんと。
それが——全部を変えてしまった。
…
心の中で、オスクリタが腕を組む。
「はい、最悪」
ため息。
「否認フェーズ終了。現在、相互認識段階に突入しました」
…
始まりは、小さかった。
少し長く残る「おはよう」。
なかなか終わらない視線。
何でもないように見える瞬間。
……何でもなくなくなるまでは。
誰も気づかない。
でも、二人には分かる。
それで十分だった。
…
アイリンは、自分に言い聞かせる。
意味なんてない。
考えすぎ。
ただタイミングが重なってるだけ。
オスクリタが鼻で笑う。
「そうね。そして私は自己啓発講師」
少し肩をすくめる。
「彼はもう避けてない。で、あなたも逃げてない」
…
それは事実だった。
そして——新しかった。
…
数日後。
練習帰り、二人は同じタイミングで体育館を出た。
約束したわけじゃない。
避けたわけでもない。
ただ——そうなった。
…
並んで歩く。
近すぎない。
でも遠くもない。
意識してないフリをしてる距離。
…
「上達したな」
ダイレンが言う。
「前にも言ってた」
アイリンが返す。
「今回はもっと本気」
…
アイリンは少し笑った。
「気をつけて。信じ始めるかも」
「信じればいい」
…
シンプルだった。
——シンプルすぎた。
だから余計に危ない。
…
心の中で、オスクリタが深いため息をつく。
「はい。これが人類が人生を壊す方法です」
「何が?」
「その瞬間だけ正しく感じる選択」
目を細める。
「一番危険なタイプよ」
…
アイリンは、ほとんど無視した。
完全には無理だったけど。
…
二人はそのまま歩き続けた。
空気は軽い。
でも、安全じゃない。
…
そして初めて。
アイリンは、安全じゃなくてもいいと思った。
…
それから、話すことが増えた。
大した話じゃない。
ただ——自然に続いてしまう会話。
無理がなくて、
簡単すぎて、
止めどころが分からない。
…
そして、イーサン。
ある日の午後、図書館の外で、彼は一人で座っているアイリンを見つけた。
「やあ」
「やあ」
イーサンはいつも通り隣に座る。
静かで、自然で、気を使わせない。
でも——何かが違った。
彼じゃない。
アイリンのほうが。
…
心の中で、オスクリタが小さく言う。
「……うん。これはもう変わっちゃったわね」
…
間違っているわけじゃない。
居心地が悪いわけでもない。
ただ——前とは違う。
…
イーサンは気づいていた。
もちろん。
「また、どこか行ってる」
アイリンは少し迷ってから、うなずく。
「……うん」
…
彼はしばらく彼女を見つめ、それから小さく笑った。
「じゃあ、たぶん答えは分かってる」
アイリンは息を止める。
「そんなつもりじゃ——」
「君は何も悪くないよ」
やさしい声だった。
ドラマもない。
責める感じもない。
ただ、理解しているだけ。
それが——逆につらかった。
…
心の中で、オスクリタが首をかしげる。
「……健康的すぎて逆に困るわね、これ」
…
その日の夕方。
今度はダイレンが彼女を見つけた。
偶然じゃない。
…
「アイリン」
声が違った。
前より、まっすぐで、迷いが少ない。
アイリンが振り向く。
心臓が即座に反応する。
…
オスクリタがため息をつく。
「はいはい、非常に“あなたらしい”反応です」
…
「少し話せる?」
アイリンはうなずいた。
…
二人は人の声から離れる。
騒がしさから。
周囲の視線から。
“何も起きてないフリ”の安全地帯から。
…
しばらく、どちらも話さなかった。
…
「もう、何もないフリしたくない」
ダイレンが言う。
アイリンの呼吸が止まる。
「……私も、頑張った」
「でも、何もないわけじゃない」
…
沈黙が落ちる。
でも今度の沈黙は、空っぽじゃなかった。
ちゃんと意味がある。
…
「どう終わるのかは分からない」
ダイレンは続ける。
「でも、お前から離れたくない」
…
それだけだった。
大きな告白もない。
劇的な言葉もない。
ただ——正直だった。
…
アイリンの胸の中で、いろんな感情が一気にぶつかる。
不安。
引力。
迷い。
…
「悪い考えね」
オスクリタが言う。
からかいじゃない。
ただ、事実として。
…
「分かってる」
アイリンは答えた。
「それでも、やってみたい」
…
オスクリタが長く息を吐く。
「まあ……」
少し肩をすくめる。
「少なくとも、自滅だって理解した上で進んでるのは偉いわ」
「失敗したら迎えに行ってあげる」
…
アイリンは少しだけ笑った。
ダイレンも。
…
そして——
計画もなく、保証もなく、常識もないまま。
全部が変わり始めた。




