081 ランドセル に ついて
詰め込むのはもっぱら教科書。一時間目から六時間目まで、その日にある授業で使う教科書を確認して詰め込んだ記憶が一番残っている。何回も繰り返した、同じような行為なのに、いや同じような行為を何回も繰り返したからこそ、記憶に残っていたのだろう。他に詰め込んだのは、プリントの入ったファイルとか、升目のついた下敷きとか、あと、真っ黒な筆箱。勉学に熱心な小学生ではなかったけれど、必要な物はきちんと準備する方だった。たまに忘れて、嫌な気分になることもあったけれど。
小学校へ通う小学生だけに背負うことを許された鞄、ランドセル。その他に許されるのは、『天使の◯』『妖◯の翼』のCMに出てくる大人たちのみ。
…嘘だ。ランドセルを背負うことに許可など必要ない。それが中学生であっても、高校生であっても、大学生であっても、大人であっても、老人であっても、背負いたい者は背負えばいいだけの話だ。しかし、一度根付いたイメージというのは厄介なもので、ランドセルは小学生のものという認識が広まった今となっては、卒業した者がランドセルを背負うのは、何とも抵抗感がある。
想像してほしい。道を歩いていると、前方から一人の男性がやってくる。歳は二十代後半か。イケメソだ。何事もなくすれ違う時、彼の背中に目をやると、そこにはリュックの類ではなく、ランドセルがあった。…忍び寄る違和感。明らかに男性は小学生ではない。しかし、ランドセルを背負っている。紫のランドセルだ。
想像してほしい。再び道を歩いていると、前方から一人の女性がやってくる。歳は三十台前半か。結構な別嬪さんだ。これまた何事もなくすれ違う時、彼女の背中に目をやると、そこにはランドセルがあった。…主張する違和感。明らかに女性は小学生ではない。しかし、ランドセルを背負っている。真っ赤なランドセルだ。
こんな場面に遭遇したら、大体の人が変な感じになると思う。何故、このようなことが起こるのか。最初にも言った通り、それは、ランドセルが子どものものだという認識を持っているからだ。大規模な集団で同じものを使用することは、意識統一の面でも有効だとは思うけれど、背負いたい卒業生はその弊害を受けているわけだな。もしも、小学校へ通う際に使う鞄の規定がなかったなら、このようなことは起こっただろうか。いや、起こらなかっただろう。そしたら、子どもから老人まで、たくさんの人たちがランドセルを堂々と使うことができたかもしれない。
日本では「ランドセルは子どものもの」という認識があるけれど、外国はどうだろう。きっとランドセルなんてものはないだろうから、輸出したら流行るかもしれない。案外、機能的な鞄だから。走った時に上下運動しないように背中にぴったりつくようになっているし、雨にも強いし、型崩れしにくい。結構色んなものが入る大きさをしている。リコーダーや給食袋、体操服など、詰め込めるだけ詰め込んでパンパンにさせることもできる。ポケットもついているので、そこに細かな物を入れることもできる。
ファッション道具の一つとして、使ってみるのも面白いかもしれない、と思っていたら既にその風潮はやってきているようだった。日本ではあまり見かけないが、海外のセレブはオシャレでランドセルを使っているらしい。大人であっても…。こういう時、イメージが先行していると損だなって思う。壊すことができたら話は簡単だけど、一度生まれたイメージを塗り替えるのはちょっと難しい。それが個人的なものだけでなく、社会的なイメージにもつながっているのだからなおさらだ。
ランドセルは子どものもの。そう思ってきたけれど、ここいらでぶち壊してもいいのではないだろうか。色のバリエーションが赤黒だけでなくなってきたように、使い手の多様性も認めてみたら、また新しい使い方を閃くかもしれない。奇抜と言うなかれ。新しく始まるものは何だって奇抜なものだ。ランドセルだって、初めて使われた時は、馴染みの無い奇妙なものとして人々の目に映ったはずである。要は心の持ちようである。さぁ、ランドセルの新しい使い方を考えようではないか。




