感謝
ルシアンは咄嗟に目を瞑った。
ここまでかーー
死を覚悟した彼が考えたのは、一緒に山を超える約束をしたタリアナのことだった。
どうか、今のうちに無事に逃げてくれ……。
ーーしかし、振り上げられた凶暴な爪がルシアンを突き刺すことはなかった。
目を開けば、タリアナが、紫グマの背中をモリでひと突きしていた。
「ルシアン! 大丈夫!?」
紫グマは、モリが刺さったままもがき苦しみーー数秒後、うつ伏せに倒れて動かなくなった。
「……死んだのか?」
倒れた紫グマを、ルシアンが恐る恐る覗きこむ。
「近づいちゃ駄目! モリの刃先に痺れ薬を仕込んであったから、麻痺しているだけよ。今のうちに逃げましょう!」
タリアナはルシアンの手を握り、走り出した。
途中で何度か躓きそうになりながらも、ただ一目散に、走って、走ってーー
やがて、開けた高原に出た。
さすがのタリアナも息が荒くなっている。
「……はぁ。ここまで来れば、紫グマは追って来ないと思う……」
「はぁ…はぁ、そうだな……助かったよ。……あ!」
ほっとした2人は、ずっと繋ぎっぱなしだった手に気がついて、照れながら同時に引っ込めた。
高原には、色とりどりの高山植物が咲き乱れていた。
爽やかな風が吹き抜けて、汗をかいた肌をくすぐる。
タリアナは新緑の絨毯でゴロゴロと転がり、仰向けになった。
空には、雲ひとつない青空が広がっている。
「わあ……気持ちいい。ルシアンも一緒に休憩しよう!」
「ああ」
ルシアンは、荷物を平らな岩の上に置くと、迷いなくタリアナの隣りで仰向けになった。
「本当に気持ちがいいな。……タリアナ。俺は、また君に命を救われてしまった。どうやって恩返しをしたらいい? 感謝しても感謝しきれない……」
「ふふっ。その言葉だけで充分だよ」
「モンテール帝国に着いたら、何かプレゼントするよ。宝石でも、ドレスでも、住む所でも……何でも」
「……そこまで言うなら、食事をご馳走してほしいわ。ラザージョが食べたいの。モンテール帝国の名物料理」
「……ラザージョ?」
「え、知らない? ルシアンの住んでる国の名物だよ。三角鷄をカリカリに揚げてもちもちの皮に包んだスパイシーな絶品料理!」
「知ってるよ……俺の好物だからな。ただ、知る人ぞ知る料理というか……名物料理ってことはないぞ」
「そうなの? わたしが以前行った時には、行列ができるラザージョの店が何軒もあったんだけど……」
「……それって、時間が戻る前の話? モンテール帝国には行ったことがなかったんじゃないのか?」
「目覚めてすぐに向かうのは初めてよ。でも、少しだけなら……行ったことがあるわ。1回目のループで、リシャールと一緒に皇居の迎賓会に参加したの。時間が戻る直前だったから……今から3年後の話になるわね」
「……迎賓会には誰が来てた?」
「世界各地の王族に会ったよ。思い返せば、3回目の夫のアドリアンも、4回目の夫のフェリクスも来てたわね……わたしとは違う奥様を連れて」
「帝国の皇太子にも会った?」
「ええ。食事の時に隣りに座ってて……彼が、テーブルに並べられたラザージョを見て、帝国の名物料理だって教えてくれたのよ。亡くなったお兄様が大好きだった料理なんだって……」
「……皇太子の名前は、もしかしてドルシン?」
「ええ……確かそう。でも、どうして?」
「俺が知ってる皇太子は……彼じゃないんだ」
「あ、元皇太子のお兄様は、3年ほど前、他国へ視察に向かう途中に、猛獣に襲われて亡くなったって言ってたから……今はまだ、生きているのね?」
「ああ……生きているな」
ルシアンが自分の胸に手を当ててため息をついた。
「亡くなるのがわかってるのに、何もできないなんて悔しいよね。視察を取りやめた方がいいって伝えれば、聞いてもらえるかしら?」
タリアナの言葉に、ルシアンは首を横に振る。
「いや、伝えなくていいよ。きっと、今回は大丈夫だから。……帝国に着いたらラザージョをご馳走するよ。食べるのは、その時以来か?」
「いいえ。実は、4回のループの全てで食べているわ」
「そうなの?」
「うん。2回目のループでは、部屋から出してもらえなかったから、エドガーに取り寄せてもらったの。3回目は、帝国でギャンブルに明け暮れているアドリアンを叱りに行った時に、街のレストランで食べたんだよね。4回目は、禁止してた酒を飲んで暴れてしまったフェリクスが、お詫びとして用意してくれたものを……。そういえば、どのループでもラザージョを食べた日の夜に、時間が戻っているわ」
「それって……、ラザージョがタイムリープの引き金になってるってことなんじゃ……」
「あ!!」
突然、タリアナは、大きな声を上げて立ち上がった。
ルシアンが慌てて起き上がればーー荷物を奪おうとしている山賊たちと目が合った。




