1章-1 ②
——全財産を失った。
絶望が、津波のように押し寄せてくる。
私は明日から、どこで寝て、何を食べればいいのだろう。
いつだったかお母さんに、食べられる野草の見分け方を教わったことがある。
あのとき、もっと真剣に聞いておくべきだった。まさかこんなに早く実生活で役立つ日が来るとは。
「これに懲りたら、賭け事は控えるんじゃな。リリアが悲しむぞ」
あまりの絶望に記憶ごと吹き飛んでいたが、お母さんの名前を聞いて、私は自分の生活を思い出した。
……よく考えたら、家はある。お母さんの作ってくれるご飯もある。
全財産を失っても意外と大丈夫だ。
今日の晩ごはんは何だろう。
「なんで私、こんなに運がないんだろう。ギャンブル、向いてないのかな」
「ふぉっふぉ。運ではない。経験の差じゃ。少しは、わしのすごさがわかったかの」
ゲンじいちゃんが、勝者の余裕でひげを撫でる。
「まあ、これも人生経験として受け止めるんじゃな。そして、ギャンブルはやめるんじゃ」
この道で食べていこうと考えていた私だったが、どうやら諦めなければいけないタイミングがきたらしい。
「でも、私、最近これだけが楽しみだったのに。やめたら暇で死んじゃうよ」
「ていうかゲンじいちゃん、なんでこんなに強いの。ほんとはイカサマしてるんじゃないの」
「……変なことを言うな、バカ者」
ゲンじいちゃんが、ほんの少しだけ食い気味に否定した。あやしい。
「まあ、ただ。コツのようなものは、確かにある」
「コツ?」
「ギャンブルを控えると言うのなら、そのコツを教えてやってもいいぞ」
「ええ……でも、もうギャンブルしないんでしょ。それじゃ意味ないじゃん」
「ふぉっふぉ、そんなことはない。このコツは、日常でも十分に役に立つ」
正直、迷った。
だが——運だけだと思っていたこの賭け事に「コツ」があるというなら、気にならないと言えば嘘になる。
「……うん、わかった。じゃあ、いったんギャンブル辞めるから、教えて」
「左手を出すんじゃ」
私は左手の小指を立てて、ずいと前に突き出した。
ゲンじいちゃんも自分の左手の小指を伸ばし、私の指にそっと絡める。
骨ばった、節くれだった指だ。
「目を閉じて、ギャンブルはしないと精霊に誓うんじゃ」
私は目を閉じて、心の中で誓った。
——“しばらくの間”、ギャンブルはしません、と。
この誓いは、おまじないのようなものだ。破ったところで、罰が当たるわけではない。
それでも何か約束事をするとき、こうして精霊に誓いを立てる。
心の重しのようなものだ。
「よし。それでは教えてやろう。わしの、常勝の秘密を」
わくわく。
「ギャンブルで何より大切なのは——相手をよく観察することじゃ。相手がどういう人間で、どういう考え方をするのか。それがわかれば、自然と相手の手も読めてくる」
「はあ……」
壮大な前振りの割に、ずいぶんと当たり障りのない話が出てきた。
「わしはな、お前のことを赤ん坊の頃から知っておる。じゃから、お前の考えなど、手に取るようにわかるわけじゃ」
ゲンじいちゃんが、満足げに言い終えた。
「……それで?」
私は続きを促した。
「以上」
きっぱりと言われた。
……はあ。呆れた。
中身がないにもほどがある。
何が常勝のコツだ。
こんな身も蓋もない話を聞くために、私は唯一の楽しみを控える誓いまで立てたのか。
「……不満そうじゃな」
「顔に出てる?」
「出ておる」
さすが、私を赤ん坊の頃から見てきたゲンじいちゃんである。
私のあからさまな不満顔を見て、私が不満であることを完璧に的中させた。
というか、私の性格を熟知しているなら、この話をする前に「エレナはこの話で不満になる」と読めたはずだ。
何が「お前の考えなど手に取るようにわかる」だ。
説得力がなさすぎる。
「……仕方ないのぉ。特別じゃ。もう一つ、教えてやろう」
ゲンじいちゃんが、ちょいちょいと手招きをする。
私は身を乗り出して、ゲンじいちゃんの口元に耳を寄せた。
ゲンじいちゃんが、耳打ちする。
ゲンじいちゃんの言葉を聞き、私は記憶を思い返す。
「えっ……」
「まあ、そういうことじゃ」
じゃあ、私が今まで負け続けてきたのは——。
「悪用するんじゃないぞ」
悪用。悪用って、なんで私が悪用できるの?
むしろ私、今日までずっと、それを悪用されてきた側なんですけど。
抗議の声を上げようとした——
……あれ。そういえば…。
「ほれ」
私が言葉に詰まっていると、ゲンじいちゃんが掛け金の山から何枚かの硬貨をつまみ、私の前に置いた。
「ギャンブル卒業祝いじゃ。それで果物でも買って帰りなさい。リリアへの土産にな」
「……ゲンじいちゃん」
このさりげない、やさしさにいつもコロッと騙されてしまう。
もとはといえば私のお金を奪ったのはこの老人なのだが。
勝負が終わり、その後、ゲンじいちゃんや酒場の人たちと少しだけ雑談をした。
この時間が、私は結構好きだった。
「お前さん、学校には行かんのか」
「学校?」
行きたくないと言えば、嘘になる。
でも、お母さんとそんな話をしたことはなかった。
「リリアに、言ってみたらどうじゃ」
「うーん……。お母さん、なんて思うかな」
「さて、どうじゃろうな」
ゲンじいちゃんも、お母さんの気持ちまではわからないようだった。
「まあ、お前さんの気持ちが大事じゃ。リリアも同じ思いじゃろう。」
珍しく真面目な声だった。私は少しだけ、その横顔を見つめた。
窓の外が、いつのまにか暗くなり始めていた。私は卒業祝いの硬貨を握りしめて、椅子から立ち上がる。
「じゃあね、ゲンじいちゃん。次は勝つから」
「おい、誓いはどうした」
チッ…ゲンじいちゃんは案外記憶力がいい。
まっ、来年ってとこか。
私は酒場を後にした。




