第5話「35歳」
三十五歳。
学生の頃に思い描いていた三十五歳とは、まるで違っていた。
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ナオトが高校生だった頃。
三十五歳という年齢は、もっと遠くにあるものだと思っていた。
家族がいて。
家を持っていて。
仕事でも責任ある立場になっていて。
大人になっている。
そう思っていた。
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しかし現実は違った。
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土曜日の朝。
いや、もう昼に近かった。
ナオトは重い頭を抱えながら目を開く。
スマホを見る。
午前十一時四十八分。
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またやってしまった。
そう思う。
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昨夜は午前三時を過ぎていた。
居酒屋。
カラオケ。
コンビニ。
駐車場。
だらだら続いた時間。
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結局、何を話したのかもよく覚えていない。
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冷蔵庫を開ける。
ペットボトルのお茶を一気に飲む。
胃が気持ち悪い。
頭が重い。
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土曜日が半分終わっている。
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ふと机を見る。
資格試験の参考書が置いてある。
二週間前に買ったものだった。
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開いてみる。
しおりは十五ページで止まっている。
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合格には数百時間必要。
ネットにはそう書かれていた。
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ナオトは本を閉じた。
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「また今度やるか」
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そう言ってしまう。
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その言葉を何回使ったか、自分でも覚えていない。
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スマホが鳴る。
河合町ソールズのグループチャットだった。
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ケンジ
> 起きてるかー
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タカシ
> パチンコ行こうぜ
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シンジ
> 今日は勝てる気がする
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ユウスケ
> いつもの店?
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アキラ
> 行く
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ナオトは画面を見つめる。
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本当は勉強しようと思っていた。
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しかし指は勝手に動く。
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> 行く
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送信。
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そして少しだけ後悔する。
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だが、その後悔も五分後には消える。
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待ち合わせ場所はいつものパチンコ店だった。
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店内は騒音で満ちている。
電子音。
当たりの音。
人の声。
煙草の匂い。
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ケンジが笑う。
「おう」
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いつもの顔。
いつもの笑顔。
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タカシが缶コーヒーを渡してくる。
「飲め」
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ナオトは受け取る。
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気付けば全員揃っていた。
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まるで昨日の続きみたいだった。
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いや、昨日の続きなのかもしれない。
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ケンジが言う。
「俺ら何年一緒なんやろな」
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「二十年以上ちゃう?」
とシンジ。
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「小学校からやもんな」
ユウスケが笑う。
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タカシが言う。
「すげーよな」
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確かにすごかった。
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しかしナオトは別のことを考えていた。
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二十年。
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二十年間で何を積み上げたのだろう。
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思い出はある。
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飲み会。
旅行。
祭り。
卒業式。
成人式。
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しかし、
それ以外はどうだろう。
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資格。
技術。
キャリア。
人脈。
家庭。
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何か残っただろうか。
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ナオトは考える。
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しかし答えは出ない。
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パチンコの音が思考をかき消す。
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午後三時。
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ケンジが三万円負ける。
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タカシが二万円負ける。
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ナオトも負ける。
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それでも誰も帰らない。
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「夜は飲みやな」
ケンジが言う。
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全員が笑う。
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昨日も飲んだ。
今日も飲む。
来週も飲む。
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その繰り返し。
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アキラがふと呟く。
「なぁ」
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全員が見る。
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「俺らってさ」
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少し間が空く。
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「三十五歳やで」
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誰も笑わない。
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珍しく空気が静かになる。
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アキラは続ける。
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「なんか思ってた三十五歳と違うな」
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沈黙。
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ケンジが笑う。
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「何言うてんねん」
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タカシも笑う。
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「急に老けたこと言うなや」
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空気が戻る。
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また笑いが起きる。
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しかしナオトだけは笑えなかった。
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アキラが言ったことは本当だった。
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思い描いていた三十五歳は、こんな姿ではなかった。
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でも今さら認めるのも怖かった。
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認めた瞬間。
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自分が失った十数年を見なければならなくなるからだ。
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夕方。
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空が少し赤くなる。
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ケンジが言う。
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「行くぞ」
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またその言葉。
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また居酒屋。
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また金曜日みたいな土曜日。
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また同じ話。
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また同じ酒。
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また同じ仲間。
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ナオトは立ち上がる。
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心のどこかで、
「今日は帰ろう」
という声が聞こえた気がした。
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しかし、その声は小さい。
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河合町ソールズの笑い声の方が、ずっと大きかった。
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ナオトは仲間たちの後ろを歩く。
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そして気付かない。
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この時すでに、
彼らの人生は少しずつ壊れ始めていることに。
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第二章へ続く。




