第29話「一度だけ」
人は危険なことを始める時、
必ず自分に言い訳をする。
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一度だけ。
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今回だけ。
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少しだけ。
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大丈夫。
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タカシも同じだった。
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事故から三か月。
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借金は減らない。
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督促は続く。
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給料日は返済日になる。
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働いても働いても、
前に進んでいる感覚がない。
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そんなある夜。
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タカシはスマホを見つめていた。
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佐伯の連絡先。
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数秒。
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数十秒。
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そして電話をかける。
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呼び出し音。
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二回。
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三回。
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すぐに繋がる。
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「もしもし」
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落ち着いた声。
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佐伯だった。
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タカシは唾を飲み込む。
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「仕事の話……聞きたいです」
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沈黙。
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そして佐伯は笑う。
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「そうか」
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その一言で決まった。
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翌週。
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深夜。
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大阪市内の倉庫街。
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人気は少ない。
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街灯も少ない。
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タカシは指定された場所にいた。
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緊張している。
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汗も出ている。
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本能が警告している。
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帰れ。
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関わるな。
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だが借金がその声を消す。
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数分後。
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黒いワゴン車が止まる。
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中から佐伯が降りてくる。
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「初めてやな」
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タカシは頷く。
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佐伯は段ボールを指差す。
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「これ運ぶだけや」
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簡単だった。
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本当にただの荷物運びに見える。
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タカシは少し安心する。
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段ボールを車へ積み込む。
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十箱。
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二十箱。
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三十分ほどで終わる。
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拍子抜けするほど簡単だった。
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作業終了。
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佐伯は封筒を渡す。
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中には現金。
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五万円。
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本当に入っていた。
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タカシは驚く。
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これだけで。
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たったこれだけで。
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頭の中で計算する。
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四回やれば二十万円。
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十回なら五十万円。
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借金が返せる。
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人生を立て直せる。
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そんな幻想が浮かぶ。
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佐伯は言う。
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「楽やろ?」
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タカシは頷く。
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そして最も危険な言葉を口にする。
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「またお願いします」
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佐伯は笑った。
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その笑顔を見て、
タカシは少しだけ寒気を覚える。
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しかしもう遅かった。
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帰り道。
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財布には五万円。
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久しぶりに金がある。
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気分も少し軽い。
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コンビニへ寄る。
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ビールを買う。
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唐揚げを買う。
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少し贅沢な弁当も買う。
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そして自分に言い聞かせる。
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「違法ちゃうやろ」
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「荷物運んだだけや」
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「問題ない」
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しかし心の奥では分かっている。
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普通の仕事ではない。
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だから深夜。
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だから現金手渡し。
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だから会社名も曖昧。
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全部おかしい。
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だが認めたくない。
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認めればやめなければならない。
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その頃。
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ナオトは図書館にいた。
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資格試験の勉強。
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少しずつ続いている。
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進みは遅い。
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しかし続いている。
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事故が彼を変え始めていた。
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一方でタカシは逆だった。
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事故によって居場所を失い、
別の場所へ流されていた。
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同じ出来事。
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だが人によって向かう方向は違う。
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夜。
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河合町ソールズのグループLINE。
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誰も話さない。
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しかし見えないところで、
それぞれの人生は動いていた。
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ケンジは裁判を待つ。
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マサルの糖尿病は悪化する。
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ユウスケは婚活に行き詰まる。
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アキラは焦りを募らせる。
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シンジは酒量が増える。
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そしてタカシは、
一線を越え始めていた。
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まだ軽い犯罪ではない。
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まだ引き返せる。
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だが人は、
一度楽な金を知ると元には戻りにくい。
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この日受け取った五万円が、
後に人生を破壊する最初の報酬になる。
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第30話「判決前夜」へ続く。




