第九章:佐賀軍、上野に現る
文久から慶応年間にかけて、日本全土は血と硝煙が吹き荒れる狂瀾怒濤の嵐に巻き込まれていた。
長州藩は「攘夷」を叫んで外国船を砲撃した挙句、四国艦隊の猛報復を受けて壊滅し、薩摩藩は英国と戦火を交えて生麦の復讐に燃えていた。京都の街は新選組と志士たちの刃で血に染まり、江戸の幕府はその権威を急速に失墜させてゆく。
しかし、この東洋の狂乱の中で、日本最強の近代軍隊を隠し持つ肥前佐賀藩だけは、不気味なほど平穏であった。まるで深い霧の底に沈む巨大な伏竜のごとく、水を打ったような静寂を保ち続けていた。
(世間は、この佐賀の不気味な沈黙を『肥前の妖怪』、あるいは勝ち馬を見極めようとする『日和見』と呼んで嘲笑し、また恐れた。薩摩の西郷隆盛や、長州の桂小五郎らは、何度も直正の元へ使者を送り、共に天下を回天させようと熱弁を振るった。しかし、直正はそのすべてを、冷淡極まる態度で追い返したのである)
「大義だの尊王攘夷だの、中身のない精神論で兵を動かせば国が疲弊し、異国の餌食になるだけだ。天下がどう動こうと我が藩は動かぬ。今はただ、鉄を作り、学問を修め、力を蓄えよ」
直正は志士たちの血判状を投げ捨て、藩士たちに最新式の「ミニエー銃」の密輸と、さらなる怪物大砲の鋳造だけを命じていた。
(直正は、感情に任せて血を流し合う政治運動を激しく嫌悪していた。彼は、天下の政局が『合理的な結論』に達するその瞬間まで、最強の『詰みの駒』を盤上に據え置いたまま、あえて動かさないという冷徹無比な政治的駆け引きを行っていたのである)
慶応三年(1867年)十月、徳川慶喜による大政奉還が行われ、翌慶応四年、ついに鳥羽・伏見の戦いで戊辰戦争の火蓋が切られた。
新政府軍が東征を開始し、江戸城が無血開城された後も、なお抵抗を続ける一団があった。旧幕府側の精鋭の武士、および一撃必殺の剣客集団、総勢三千名からなる「彰義隊」である。彼らは上野の山(寛永寺)に立てこもり、強固な陣地を築いて新政府軍を迎え撃った。
明治元年(1868年)五月十五日。
東京は、朝から激しい豪雨に見舞われていた。大雨が大地を叩く中、ついに上野戦争の火蓋が切られる。
彰義隊の武士たちは強かった。「刀こそ武士の魂」とばかりに白刃を煌めかせ、突撃してくる新政府軍の薩摩・長州兵を次々と斬り伏せてゆく。最新の銃を数丁持ったところで、上野の険しい山へと駆け上がる薩長兵は、坂の上から放たれる旧幕府軍の容赦ない銃弾の雨に晒され、屍の山を築いていた。
「薩摩の猛者も、長州の狂気も、上野の山は崩せまい! 勝利は我が徳川にあり!」
彰義隊の絶叫が雨音に混じる。新政府軍の指揮官・大村益次郎の顔が焦りで歪んだ。このままでは新政府の威信は失墜し、再び幕府が息を吹き返しかねない。
その時であった。
ドシン、ドシン、と豪雨の大地を揺るがす、不気味な足音が近づいてきた。
泥濘の向こうから現れたのは、これまでの凄惨な戦火に一切汚れていない、漆黒の軍服に身を包んだ一団――。
沈黙の妖怪、鍋島直正が放った、佐賀藩「葉隠連隊」であった。
彼らが手にする銃を見た薩長の兵は、息をのんだ。自分たちが後生大事に持っている前装式の銃(ゲベール銃など)とは、放つ威圧感がまるで違っていた。それは、弾丸を後ろから込めて一分間に十発以上を連射できる、当時世界最高峰の大量殺戮兵器「スナイドル銃」であった。
だが、驚愕はそれだけで終わらなかった。
佐賀軍の隊列の後方から、数頭の馬に牽かれ、泥を跳ね上げて引きずり出されてきた「それ」を見た瞬間、戦場にいた全員の思考が停止した。
ぎちぎちと不気味な機械音を立てて上野の山へと銃口を向けたのは、鈍い真鍮色の輝きを放つ、巨大な鉄の筒。
佐賀藩反射炉が生み出した悪魔の超兵器――「アームストロング砲」である。
(当時、西欧列強の最新鋭戦艦にしか搭載されていなかった、射程・威力ともに従来の数倍を誇る、世界最強の尖端巨砲。他藩の持つ大砲が『ただの鉄の塊を火薬で吹き飛ばす球』だったのに対し、アームストロング砲が放つのは、体内で炸裂する『榴弾』。文字通り、未来の科学がもたらした破壊の権化であった)
雨はますます激しさを増す。彰義隊の籠る上野の山から、佐賀軍の陣までは数里も離れていた。当時の常識では、大砲の弾など届くはずもない絶望的な距離である。
「ふん、肥前の日和見どもが、見たこともない大筒を引っ張り出してきたか! だが、この雨だ! 火縄も、火薬も湿って使えまい!」
彰義隊の隊長が、高笑いと共に刀を突き上げた。
だが、佐賀の男たちは、冷徹な科学者の目で上野の山を睨み据えていた。
直正が狂信した「数理」が、今、戦場を支配しようとしていた。
「距離、修正。角度、固定」
佐賀の砲手たちが、雨に濡れた図面と照らし合わせながら、冷酷にネジを回す。アームストロング砲は、後部から弾薬を密閉して装填するため、雨など一滴も関係なかった。
「……打てッ!!」
伝令の叫び。
――ドッゴォォォォォォォォォォンッ!!!!
世界が、割れた。
上野の山が、いや江戸の街全体が、かつて経験したことのない凄まじい衝撃波で激しく震動した。
爆音のあまりの凄まじさに、近くにいた薩摩の兵たちが鼓膜を血で染めて地面に倒れ込んだ。アームストロング砲の砲口から放たれたのは、音速を超える破壊の光。
数里離れた上野の山。
勝ちを確信していた彰義隊が、巨大な火柱と共に吹き飛んだ。
弾丸が着弾した瞬間、内部の火薬が炸裂し、数千度の炎と鉄片が周囲を文字通り「消滅」させたのだ。大木が根元からへし折れて宙を舞い、強固な石垣が砂のように崩れ去る。一撃で、数十人の武士たちが肉片すら残さず消え失せた。
「な、なんだこれは……!? どこから撃ってきた!?」
彰義隊の武士たちが色を失い、腰を抜かした。神仏の加護も、天下無双の剣技も、数キロ先から正確無比に飛んでくる「科学の暴力」の前には、ただの紙切れ同然であった。
「第二射、装填」
佐賀軍の陣地では、機械の如き正確さで次の一発が込められていた。
――ドン! ドン! ドン!
連続して放たれる巨砲の咆哮。
寛永寺の黒門が、本堂が、彰義隊の陣地が、次々と正確に的確に狙い撃たれ、巨大な弾痕へ火炎へと変わってゆく。上野の山は、瞬く間に地獄の業火に包まれた。
「うわあああ! 化け物だ! 鉄の化け物が来たァァッ!」
さしもの死を恐れぬ武士たちも、この圧倒的な「未来」の前に、戦意を完全に叩き潰された。刀を捨て、泥にまみれて悲鳴を上げながら、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。
わずか半日。
数ヶ月はかかると言われていた上野戦争は、佐賀の放った数発の巨砲によって、文字通り「一瞬」で片付けられたのである。
雨が上がる頃、上野の山から立ち上る黒煙を、薩長の新政府軍はただただ呆然と見上げていた。
彼らの心にあったのは、勝利の喜びではない。背筋を凍らせるような、佐賀藩への「底知れぬ恐怖」であった。もし、あの化け物大砲が自分たちに向けられていたら――そう思うだけで、西郷も大村も、冷や汗が止まらなかった。
佐賀城の一室。
戦果の報告を受け取った鍋島直正は、フッと皮肉な笑みを浮かべ、手元の報告書を閉じた。
門閥たちに罵られ、借金取りに追われ、神仏ではなく科学の理だけを信じて突き進んできた、あの孤独な戦い。そのすべてが、上野の山を更地にしたあの轟音によって、完全に証明されたのだ。
佐賀藩の武力は、この国を次の時代へと強制的に引きずり回す「神の雷」となったのである。
最終章に続く。
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