第八章:ついに、その瞬間が訪れた。
安政二年(1855年)。有明海に面した佐賀の三重津の泥地は、世界の終わりと始まりが同居するような、異様な活気と狂気に満ち満ちていた。
どこまでも続くぬかるんだ泥海の向こうで、何百人もの男たちが泥にまみれ、巨木を挽き、鉄を叩く。直正の命により突如として設置された「御船手稽古所」。それは、日本初の近代海軍塾にして、人類の最先端に挑む「悪魔の造船所」であった。
(当時、日本中が狂乱の渦の中にあった。嘉永六年に浦賀へ現れたペリーの黒船に腰を抜かした幕府は、慌てて大船建造の禁を解いたものの、時すでに遅し。他藩の殿様たちは、和蘭陀や英国から型落ちの古びた軍艦を、法外な金で買い入れようと右往左往するばかりであった。
だが、鍋島直正の思考は、やはり別次元の、誰もついていけない孤高の領域に達していた。
「異国の船を買うのではない。我が藩の反射炉の鉄と、我が藩の科学者の頭脳で、あの黒船を、蒸気船を、最初からこの手で作り上げるのだ」
それは当時の日本の技術水準、否、東洋全体の文明度から見れば、無謀を通り越したただの『誇大妄想』であり、狂人の暴挙であった)
直正が、この国家の命運を賭けた大事業の総責任者に抜擢したのは、当時まだ三十代の若き藩士・佐野常民であった。のちに日本の「赤十字の父」として歴史に名を刻む男だが、この時はただ、直正の無茶振りに脳髄を沸騰させる一人の若き天才に過ぎなかった。
さらに直正は、身分不問の号令を発し、京都から高名なからくり人形師の技術を継ぐ精緻の鬼たちを呼び寄せ、城下の腕利きの船大工、漆職人、鋳物師らを三重津の一大梁山泊へと一堂に集結させた。
「目指すは、風を無視し、潮を切り裂いて進む黒船の心臓――すなわち『蒸気機関』の完全なる国内自給である」
佐野の叫びが、泥の風に響く。
だが、言うは易し。現場にあるのは、やはり長崎経由で手に入れた和蘭陀の学術書に描かれた、精密な、されど動かすことのできない「一枚の平面図」だけであった。
実物のボイラーを見た者など一人もいない。ピストンがどう噛み合い、蒸気がどうやって巨大な鉄の塊を突き動かすのか、その仕組みのすべてが「未知の魔法」だった。
それでも、佐賀の職人たちは諦めなかった。
手本がないなら、図面から現物を幻視するまでだ。
鉄を削り、巨大な円筒を作る。蒸気がほんのわずかでも漏れれば、それはただの鉄の箱と化す。寸分の狂いも許されぬ結合部を、職人たちは、やすり一本、鑿一丁を手に、文字通り己の手の感覚だけを頼りに、何ヶ月もかけて地獄のような手作業で削り出していった。
直正は、この三重津の作業場に、文字通り泥にまみれて何度も足を運んだ。格式高い藩主の衣服など脱ぎ捨て、職人たちと煤煙の中で車座になり、車軸の回転比率について夜を徹して議論を交わした。
失敗の数は、もはや数えることすら馬鹿らしくなるほどだった。
初めて火を入れたボイラーが、内圧の計算間違いで大爆発を起こし、作業場が跡形もなく吹き飛ぶ寸前の大惨事も起きた。職人たちが黒焦げになり、血を流して倒れる中、藩内からは再び嵐のような批判が巻き起こった。
「それ見たことか! 大砲に味を占め、今度は泥海に藩の金をドブのように捨てている!」
「からくり人形の親玉のような船など、実戦で役に立つはずがない!」
老臣たちは、直正の前に詰め寄り、激しく計画の中止を迫った。
だが、直正は彼らを、獲物を睨む猛禽のような冷たい眼光で一喝した。
「五月蝿い。この煙と、鉄の焼ける臭いの中にこそ、我が佐賀の、いや、この国の未来がある。出来ぬ、無駄だと言う者は、明日、海からやってくる異国の砲弾をその身で受け止める覚悟があるのだろうな? ないならば、黙って私の実験を見届けていろ」
直正は、金蔵からさらなる黄金の山を三重津へと注ぎ込んだ。その総額は、一藩を優に破滅させかねない規模に達していた。これぞ、佐賀藩の全生命力を賭けた、世界への大博打であった。
そして、安政、万延、文久の激動の歳月が流れ――元治二年(1865年)。
ついに、その瞬間が訪れた。
三重津の泥のドックから、鈍く黒光りする一本の巨大な鉄の煙突を持つ、漆黒の木造船体が、静かに、しかし威風堂々と有明海へと押し出された。
船の名は「凌風丸」。
全長約十一間。西欧の巨大軍艦に比べれば、まだ小ぶりな雛鳥に過ぎない。しかし、これは和蘭陀から買ったものでも、幕府からあてがわれたものでもない。日本人が、設計から、反射炉での鉄の鋳造、ピストンの微細な組み立てに至るまで、完全に自らの力だけでゼロから作り上げた、正真正銘「日本初の国産蒸気船」であった。
海岸には、数万人の領民と、これまで散々呪詛を吐き続けてきた老臣たちが、網膜を焦がさんばかりにその姿を見つめていた。一陣の風が、有明の海を渡る。
「……火を入れよッ!!」
佐野常民の、喉が裂けんばかりの号令。
船底の炉に石炭が投げ込まれ、男たちがふいごを引く。
ゴオオオオオ……ッ!!
三重津の大地が、いや、有明の海全体が鳴動を始めた。船体の中から、心臓の鼓動のような、凄まじい鉄の駆動音が響き渡る。
次の瞬間、黒い煙突から、天を突くような真っ黒な煙がドッと吐き出された。
「回せッ!!」
ギチギチギチ! と激しい歯車の噛み合わせ音とともに、船尾に取り付けられた巨大な外車が、狂ったように回転を始めた。有明の泥海が白く激しく泡立ち、烈風が巻き起こる。
「動いた……?」
誰かが呟いた。
凌風丸は、帆を一切張らぬまま、風を無視し、押し寄せる激しい潮の流れを正面から踏みつけるようにして、自らの力だけで、力強く大海原へと進み出たのである。その速度が上がるにつれ、海面に刻まれる白波が、美しく一筋の道を引いていく。
「動いた! 動いたぞォォォォッ!!」
海岸から、爆発するような地鳴りのごとき大歓声が沸き起こった。
職人たちは互いに泥まみれの顔を涙で濡らし、抱き合って地面を転げ回った。佐野常民は、激しく咆哮を上げる凌風丸の雄姿を見つめながら、その場に崩れ落ち、男泣きに泣いた。
冷笑していた老臣たちは、もはや言葉を失い、ただただ、神仏の力を借りず、風の力すら拒絶して進む「鉄と煙の怪物」の前に、ただただ脱帽し、恐怖と畏敬の念に打たれて震えていた。
それは、二百年間、西洋の科学を見上げては「勝てぬ」と絶望していた日本人が、ついにその科学を飼い慣らし、西欧と対等の地平へ、自らの力で這い上がった歴史的瞬間であった。
海岸の小高い丘の上。
直正は、一切の微動だにせず、大海原を突き進む凌風丸を見つめていた。
その瞳には、いつしか熱いものが、大粒の涙が、じわりと込み上げていた。
格式に囚われ、金を奪われ、異国に怯えていたあの少年が、ついにここまで来たのだ。
手に入れたのだ。陸には他藩を寄せ付けぬ鉄製の大砲、そして海には風を切り裂く蒸気船。
佐賀藩の海防は、ここに「完璧なる一対の盾と矛」を手に入れた。
(「見たか、これが、佐賀の真の力だ」)
心の中でそう確信した直正の視線は、もはや有明海の狭い湾内にはなかった。凌風丸が引き裂いた白波のその先、世界の荒波へと、彼の野望は完全に解き放たれていた。
だが、歴史の歯車は、この佐賀の超技術を、ただの守りのためだけには放っておかなかった。時代は、直正が作り上げたこの「怪物たち」を、日本という国家そのものを解体し、再構築するための、最大にして最凶の武器として求め始めるのである。
第九章に続く。
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