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小説 鍋島直正 一枚の鉄 1815-1871  作者: 山田 誠一


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第七章:科学を信じるということ

嘉永二年(1849年)七月。佐賀城の一室は、真夏だというのに凍りつくような静寂に包まれていた。

直正の前に座していたのは、わずか数歳の、藩の命運を一身に背負う世嗣――長男の淳一郎(のちの鍋島直大)であった。その細い腕の先には、和蘭陀医師より入手した怪しげな硝子管と、鋭く光るメスを構えた藩の蘭方医・伊東玄朴が、脂汗を流して平伏している。


(当時、日本列島は目に見えぬ死神に蹂躙されていた。『天然痘』である。ひとたび罹患すれば高熱にのたうち回り、全身に悍ましい膿疱が湧き出し、三分の一が命を落とす。生き延びても生涯消えぬ醜い痕が残る。時の将軍から一介の百姓に至るまで、この病の前には神仏に祈り、ただ死を待つ以外に術を持たなかった)


直正が、英国の医師ジェンナーの発見した「牛痘種痘法」――すなわち、牛の病の膿をあえて人間に植え付けることで、天然痘を退けるという術を導入すると宣言したとき、藩内は激震した。

「異国の毒を体に入れるなど言語道断! そんなことをすれば人間が牛になる!」

領民は恐怖し、漢方医たちは「殿は正気を失われた」と猛反発した。誰もがその怪異を拒絶した。


だからこそ、直正は決断したのだ。

「淳一郎に、その種痘とやらを施せ」


側近たちは色を失い、床に額を叩きつけて泣き叫んだ。

「万が一、若君の御身に障りがあれば鍋島家は断絶、お家騒動の引き金にございます! どうか、どうかお考え直しを!」


だが、直正の決意は微塵も揺るがなかった。


その前夜のことである。

寝所に呼ばれた幼き淳一郎は、父のただならぬ気配に、己がこれから「死ぬかもしれない試練」に臨むのだと察していた。小さな身体を震わせる我が子を、直正は冷徹な、しかしどこか深い淵のような瞳で見つめていた。


「父上……」

淳一郎は、必死に涙をこらえて声を絞り出した。

「私は、鍋島の跡継ぎとして、死を覚悟しております。……ですが、一つだけお教えください。なぜ、他の誰でもなく、この淳一郎が最初に打たねばならぬのですか。民を納得させるためなら、なぜ、父上御自身が最初に打たれないのですか」


残酷な、しかし本質を突いた我が子の問いに、直正は表情を一つ変えず、静かに言い放った。


「私がすでに天然痘にかかり、生き残った身体だからではない。たとえ私が未感染であったとしても、最初に打つのはお前だ。淳一郎」


直正の言葉は、氷のように冴え渡っていた。

「なぜか。私が死ねば、この佐賀藩の改革はすべて瓦解するからだ。反射炉も、大砲も、西洋の軍艦を買う計画も、私が倒れれば門閥どもにすべて叩き潰され、佐賀は元の貧乏藩に逆戻りする。ゆえに、私は実験の駒にはなれん。だが、民は誰もこの術を信じぬ。だからこそ、我が藩で『私の次に価値のある命』を差し出すしかないのだ。それが、世嗣たるお前の宿命だ」


淳一郎は息をのんだ。目の前にいるのは、慈悲深い父ではない。佐賀という国家を動かす、冷徹な科学者そのものであった。


「もし……もし、この毒が本物で、私が死んでしまったらどうされるのですか」


震える声で尋ねる息子に、直正は冷酷な、されど凄まじいまでの執念が宿った言葉を返した。


「お前が死ねば、私はお前の骸を抱き、その死因を克明に記録させる。何が間違っていたのか、分量が多かったのか、植え付ける場所が悪かったのか。数理の狂いをすべて洗い出させる。そして、次の者を連れてこさせ、正しい打ち方が確立されるまで、私は何度でも、何人でも実験を試み続ける。金を集めたのも、鉄を溶かしたのも、すべては等しく『この国を生き残らせるための実験』だ。この病を我が領内から根絶やしにするまで、私は絶対に諦めん」


直正は、淳一郎の小さな肩に手を置いた。


「私は神仏など信じぬ。神に祈って、これまで何万の民が死んだ? 私が信じるのは『科学』だ。和蘭陀の書物にある実験の数々は、国や人種が違えども、同じ手順を踏めば必ず同じ結果をもたらす。裏切らぬのだ。自然のことわりは、人間のような曖昧な情では動かん。だからこそ、私は科学を信じる。お前も、鍋島の子なら、神仏ではなく己の血をもって、その『証明』の礎となれ」


父の、狂気とも言える圧倒的な合理の前に、淳一郎の恐怖は、いつしか奇妙な高揚感へと変わっていた。この父は、自分を捨て駒にするのではない。人類が未だ到達していない未来の扉を開くための、最初の鍵として、自分を指名したのだ。


「……分かりました。お打ちください」

数歳の少年は、そう言って真っ直ぐに直正を見据えた。


翌日、施術は行われた。

藩内が固唾をのんで見守る中、淳一郎の身体に異国の液が注入された。数日後、若君の身体に軽い発熱が見られた時、城内は文字通りパニックに陥ったが、直正だけは「予定通りの拒絶反応だ」と、微動だにしなかった。


さらに数日後。

発熱は引き、淳一郎は、何事もなかったかのように元気な姿で庭を駆け回っていた。

その腕には、牛になる呪いの痕などどこにもなく、ただ、未来の希望の印である小さな種痘の痕が残っているだけであった。


「父上! 見てください、私は生きております! 牛にもなりませぬ!」

きらきらと目を輝かせた淳一郎が、直正の部屋に飛び込んできた。その顔には、死の恐怖を乗り越え、自らの身体で異国の怪異を「科学の正解」へと変えてみせた、誇らしげな英雄の笑みが浮かんでいた。


「私は、お国を救う大仕事を成し遂げたのですね!」

無邪気に胸を張る我が子を、直正は静かに引き寄せ、抱きしめた。


「よくやった、淳一郎。お前は今日、数万の民の命を救ったのだ。だが、すまぬ、すまぬ淳一郎、怖かったなあ、本当に怖かったなあ」


直正の目から大粒の涙がこぼれおちる。

父の泣き声を聞いて淳一郎も泣く。


父を信じた息子。科学を信じた父。二人の博打は、完全に勝利したのだ。


この衝撃的な報せは、一瞬にして佐賀領内を駆け巡った。

「殿様が、御自身の最も大切な跡継ぎ様に施され、若君はあんなに元気に駆け回っておられる! ならば、牛になるなどという噂はすべて嘘だ!」


領民たちの恐怖は、瞬時に熱狂的な信頼へと変わった。佐賀藩ではまたたく間に数万人規模の種痘が実施され、目に見えぬ死神であった天然痘は、佐賀の地から完全に一掃されたのである。

さらに直正は、この貴重な種痘の液を、独占することなく京都や江戸、他藩の医師たちにも惜しみなく分配した。のちに江戸に作られたお玉ヶ池種痘所――すなわち、現在の最高学府である東京大学医学部の源流は、元を正せば、この夜、直正と淳一郎が命を懸けて守り抜いた、わずか一管の液から始まったのである。


大砲という鉄の力で外敵を退け、種痘という科学の力で内なる死神を屠る。

佐賀藩は今や、日本の中で完全に「未来」を生きる特異点となっていた。


第八章に続く。

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