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小説 鍋島直正 一枚の鉄 1815-1871  作者: 山田 誠一


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第五章:溶けろ鉄

嘉永三年(1850年)初冬。佐賀城下の北方に位置する築地の空を、二基の巨大な赤煉瓦の煙突が切り裂いていた。「反射炉」である。


(それは当時の日本人にとって、天地開闢以来の『怪異』であった。石炭の焔を天井に反射させ、その天空の如き超高熱――実に千五百度の地獄の業火をもって、不純物だらけの和鉄を、至高の溶鉄へと変える魔法の炉。これなくして、世界を蹂躙する西欧の巨艦に対抗できる『鉄製大砲』の鋳造など、天地がひっくり返っても不可能であった)


直正がこの大事業を宣言したとき、藩内は文字通りひっくり返った。

「異国の呪法とも言うべき怪しげな煉瓦塔に、藩の命運を懸けるなど正気の沙汰ではない!」

「大砲なら、これまで通り神仏の加護に守られた青銅を溶かせば足りる!」

老臣たちは唾を飛ばして猛反対した。それもそのはず、当時の日本は幕府すらも鉄を大量に溶かす技術など持ち得ていない。手本となる実物はおろか、まともな図面さえなく、あるのは和蘭陀の書物から必死に翻訳した、わずか一冊の不完全な設計図の写しのみであった。


しかし、若き君主の眼は、凍てつく刃の如く冷徹であった。

「青銅など、異国の鉄砲の前には紙細工も同然。出来ぬと申す者は、私の前から去れ。たとえ国を傾けようとも、私はこの炉に火を灯す」


直正は、藩の若き科学者や鋳物師たちを掻き集め、「大砲製造方」を組織した。中心となったのは本島藤太夫や古賀穀堂といった、身分こそ低くとも、数理の鬼と化した若者たちである。直正は彼らに国家の全財産とも言える予算を与え、自らも泥にまみれて現場へ通い詰めた。


だが、現実は残酷であった。

初めて炉に火を入れ、熱が最高潮に達したその時――凄まじい轟音とともに、炉全体がドロドロに溶け落ちて崩壊したのである。千五百度の熱に耐えられる「耐火煉瓦」が、日本国内の土では作れなかったのだ。

崩れ落ちた煤煙の中で、技術者たちは膝を突き、幽鬼のように天を仰いだ。

「やはり、異国の神に選ばれぬ我ら日本人には、鉄は微笑まぬのだ……」

現場を支配したのは、呪いのような絶望だった。


だが、直正だけは、冷え切った廃墟の中でただ一人、狂気にも似た闘志を滾らせていた。

「和蘭陀人にできて、我ら佐賀の者にできぬ道理がどこにある。土が足りぬなら、日本中の土を集めよ!」


直正は自ら日本中からあらゆる粘土を取り寄せ、指の皮が擦り切れるまで科学的な分析を繰り返した。そしてついに、肥前伊万里の陶土――かつて世界を魅了した有田焼の母なる白土を混ぜ合わせるという、奇跡の配合に辿り着いた。これこそが、西欧の科学に日本の伝統が追いついた瞬間であった。


嘉永三年十二月十二日。

灰燼から蘇った漆黒の反射炉に、再び命の火が解き放たれた。ゴオオオ、と地鳴りのような爆音が築地の台地を揺らす。


煙突から立ち上る真っ黒な煙が冬の青空を侵食し、炉の温度は限界を超えて上昇していく。誰もが息を止め、祈るように炉の湯口を見つめていた。本島藤太夫の握りしめた拳からは、血が滲んでいた。もしこれで駄目なら、彼は腹を切る覚悟であった。


「――湯口を、開けッ!!」


裂帛の気合とともに、極太の鉄棒が突き入れられた。

次の瞬間、ドッと、閃光が走った。


「おおおおおお……っ!!」


地獄の底から湧き上がったかのような、神々しいまでに真っ赤に融解した液状の鉄が、脈打つ溶岩となってドロドロと流れ出した。その凄まじい光と熱に、現場の誰もが目を射られ、のけ反った。


それは、日本人が、自らの頭脳と、自らの土と、自らの執念だけで、歴史上初めて「近代の鉄」を従えた瞬間であった。


「流れた……流れたぞォ!」

誰かが叫んだ。次の瞬間、泥にまみれた職人たちも、眉毛を焦がした科学者たちも、互いの肩を抱き合い、子供のように声を上げて号泣した。涙が頬の煤を黒く汚していく。

彼らが流したその涙は、二百年の太平の眠りの中で、すっかり錆びついていた武士の魂を、根底から洗い流していくかのようであった。


男たちの歓声の向こうで、直正は静かに、流れ続ける眩い鉄の河を見つめていた。その瞳には、一滴の涙もなかった。ただ、燃え盛る鉄の光が、その若き顔を、そして佐賀藩の、この国の未来を、恐ろしいほどの鮮烈さで照らし出していた。


(「見たか、これが新しい時代の夜明けだ」)


心の中でそう呟いた直正の背中には、もう江戸の商人に侮られた、あの無力な少年の影はどこにもなかった。


第六章に続く。

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