第三章:金
天保二年(1831年)、肥前佐賀の地を踏んだ直正を迎えたのは、歓迎の歓声ではなく、荒廃した農村の不気味な静寂と、利権にしがみつく役人たちの冷ややかな視線であった。
江戸の火災による新たな借財、そして父・斉直が遺した天文学的な負債。佐賀藩の懐は、一文のゆとりもない「完全なる死体」であった。
(世に改革を志す者は多い。しかし、その多くが挫折するのは、既存の特権階級の反発を恐れるからである。直正にはその恐れがなかった。彼の基準は『正しいか否か』ではなく、『合理的か否か』であった。彼は、まず藩の寄生虫どもを駆除することから始めた)
直正が最初に行ったのは、藩の役人の数を三分の一に減らすという、凄まじい大鉈であった。先祖代々の家柄を誇り、座っているだけで禄を食んでいた門閥の上級藩士たちは猛反発し、藩内は蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。
「今日より、無駄な役職はすべて廃する。家柄に関わらず、能力のなき者は席を去れ。異論のある者は、私をこの場で斬るが良い」
若き藩主の言葉は冷たく、反論を許さぬ威厳に満ちていた。直正は彼らの俸禄を容赦なく削減する一方で、身分は低くとも実務に長けた若き藩士を次々と抜擢し、己の手足として動かした。
しかし、人件費を削るだけでは、山のような借金は一分も減らない。直正は、藩の病の根源が農村にあることを見抜いていた。
当時、佐賀の農村では、貧しい農民が借金のために土地を手放し、一握りの富裕な地主が土地を独占して過酷な小作料を貪るという、貧富の差が極限に達していた。土地を失った百姓はやる気を失い、田畑は荒れ果て、逃散する者が絶えなかった。
ここで直正は、徳川二百年の法度を根底から揺るがす最大の禁じ手、すなわち「均田の法」を断行した。地主たちから強制的に土地を買い上げ、あるいは無条件で没収し、これを貧しい農民に一律に再分配するという、空前の超法規的措置である。
「公儀の定めた土地の所領を乱すとは、公方様への反逆! 藩を滅ぼす気か!」
富裕な地主やこれと結託する重臣たちは色を失って抗議し、直正の命を狙う暗殺の噂が夜毎に囁かれた。
(これは、封建社会の根観である『私有財産の保障』を無視した、一種の国家権力による強奪とも言える暴挙であった。一歩間違えれば、大規模な一揆が起きるか、あるいは家老たちによって藩主が押し込められる、命懸けの大博打であった。しかし直正は、己の君主としての権力をすべて使い、この措置を力ずくで強行した)
直正が命を懸けて掴もうとしたのは、目先の支持などではない。民の飢えを止め、藩の血流を取り戻すこと。ただその一事であった。
土地を買い戻された百姓たちは、己の田畑を耕す喜びに湧き返り、泥にまみれて働き狂った。佐賀の米の生産量は、数年のうちに驚異的な跳ね上がりを見せた。
だが、直正の本当の仕掛けはここからであった。彼は単に米を収穫するだけでは満足しなかった。
「米だけでは、江戸の商人の利息にすら届かぬ。我が藩にしかできぬ物で、奴らの懐から金を毟り取るのだ」
直正は、伊万里や有田で焼かれる「磁器」、そして灯明の原料となる「蝋」の製造を、藩の完全なる専売とした。それまで商人が中抜きしていた利益を、すべて藩の直轄としたのである。さらに、長崎の目と鼻の先という利点を活かし、他藩を通さず直接海外や天下の台所へと売り捌く、密貿易まがいの巨大な流通網を極秘裏に構築した。
百の無駄を削り、一の合理を足す。科学者のような冷徹な計算が、ついに火を噴く時が来た。
天保十二年(1841年)。
佐賀城内、長年「空っぽ」で埃が舞っていた藩の金蔵。その重々しい鉄の扉の前に、直正と、彼に抜擢された若き実務派の藩士たちが立っていた。
かつて江戸の商人たちに呼び捨てにされ、泥水を飲まされるような屈辱に耐え続けてきた男たちである。彼らの手は、一様に震えていた。
「開けよ」
直正の短い命。
ギギギ、と錆びついた音が響き、扉が開け放たれた瞬間――。
「……っ!!」
室内にいた全員が、その眩しさに思わず息をのんだ。
そこにあったのは、薄暗い蔵の奥まで足の踏み場もないほどに積み上げられた、黄金の山、山、山であった。
専売制と海外交易によって得られた莫大な金銀、そして千両箱が、天井に届かんばかりに重なり合い、恐ろしいほどの輝きを放っていたのである。八万両の赤字は完全に消滅し、逆に他藩が逆立ちしても届かない、数十万両という巨万の富がそこに鎮座していた。
「……これ、すべて、我が藩の金にございますか」
一人の若い役人が、たまらず千両箱にしがみつき、大粒の涙を流しながら小判の束を 掻き抱いた。
「そうだ。これは我らの金だ。もう江戸の商人に頭を下げる必要も、民を飢えさせる必要もない!」
男たちは互いに顔を見合わせ、声を詰まらせ、やがて狂ったような歓喜の声を上げて泣いた。爪の間に泥を詰め、上級武士たちの罵倒に耐え、ただ直正の計算だけを信じて走り抜けてきた日々が、いま、本物の黄金となって目の前に証明されたのだ。借金まみれの弱小藩が、天下で最も豊かな「怪物」へと変貌を遂げた瞬間であった。
狂喜乱舞する家臣たちの真ん中で、直正はただ一人、腕を組み、黄金の山を冷ややかに見つめていた。その脳裏には、かつて擦り切れた衣服を笑った父の顔や、駕籠を止めた江戸の商人たちの傲慢な顔が去来していた。
(「見たか。格式が金を呼ぶのではない。合理が金を支配するのだ」)
金は手に入った。天下を買い叩くだけの、牙が手に入ったのだ。
しかし、直正の目は、その黄金の輝きのさらに先、不気味な鳴動を始める外海へと、すでに向けられていた。この金は、遊興のためではなく、来るべき「鉄の時代」の軍資金に過ぎない。
第四章に続く。
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