第二章:蘭学の書物を読む
天保の初めのころ、江戸桜田の佐賀藩邸は、奇妙な二重構造を呈していた。奥御殿では、隠居してなお権力を誇示しようとする斉直が、相変わらず能楽に興じ、大奥への進物選びに血道を上げている。その一方で、表御殿の狭い一室では、若き直正が一汁一菜の食膳を前に、藩の帳簿を睨みつけていた。
大名家における「隠居」という存在は、往々にして現藩主以上の重荷となる。斉直は己の放蕩が原因で財政を破綻させたにもかかわらず、その生活をいささかも改めようとはしなかった。
「貞丸は、どうにも気が小さくて困る。あのような吝嗇な真似をしては、鍋島家の名が泣く」
斉直は、衣服の擦り切れを繕って着る我が子をそう評し、不快感を隠さなかった。古い時代の人間にとって、格式や面目とは、すなわち消費の大きさのことであった。
(直正の凄みは、この父親に対して「感情的な反発」を一切見せなかったことにある。彼は父を憎むのではなく、ひとつの『歴史的病理』として観察していた。感情で動けば、藩内は隠居派と現藩主派に分かれ、泥沼の内紛に陥る。彼はただ、静かに時を待つという、恐るべき隠忍の道を選んだ)
直正は、父からの度重なる嫌がらせや、旧習にこだわる重臣たちの小言に対しても、決して声を荒らげることはなかった。ただ、自らの書斎に閉じこもり、歴史書や儒学、そして蘭学の書物を貪り読んだ。彼は、和蘭陀の医学や天文学、地理学の記述の中に、これからの時代を生き抜くための「合理の骨組み」を見出していた。
天保六年(1835年)、その瞬間は最悪の形で訪れた。江戸の佐賀藩邸が、不慮の火災によって灰燼に帰したのである。ただでさえ借財で首が回らないところに、邸宅の再建費用という、さらなる巨費が必要となった。
これには、さしもの斉直も呆然自失となり、己の不徳を認めざるを得なくなった。もはや大奥へ贈る金も、能役者を雇う金もない。斉直はついに、藩政の全権を完全に直正に委ね、奥深くへと引きこもった。
直正、二十二歳。ついに肥前佐賀の地において、己の理想を形にする全権を手に入れた。しかしそれは、灰と借金にまみれた中での、あまりにも重い出発であった。
第三章に続く
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