第一章:金がどんどん溶けていく
「これなる能装束、京の職人に織らせたものだが、いかほどに見える」
文化十一年(1814年)十一月六日、江戸桜田にある佐賀藩上屋敷の奥深く。第九代藩主・鍋島斉直は、極彩色の小袖を広げ、満足げに目を細めた。
対座する国家老・鍋島茂義は、手元の帳簿を握りしめたまま、うっすらと冷や汗をにじませていた。
「……見事な品にございます。されど殿、此度は江戸の商人たちへの利息の支払いも滞っており、これ以上の買い付けは、いささか藩の金蔵が耐えかねまする」
「阿呆を申せ、茂義。天下の鍋島家が、金銀の多少ごときで品格を落としてなるものか。大名たるもの、華美な行列を仕立て、格式高き振る舞いを示してこそ、幕府からも侮られぬのだ。金など、天下の回り持ち。使えば使うほど、我が家の威光は高まると思え」
斉直は豪快に笑い飛ばし、さらなる進物用の能道具を注文するよう命じた。茂義は深く平伏し、「ははっ……」と引き下がるほかなかった。厳格な縦社会の中で、主君の放蕩を真に差し止める術など、誰一人として持ち得ていなかったのである。
徳川二百年の太平は、大名という存在を「戦う者」から「消費する者」へと変質させていた。とりわけ、この時代の佐賀藩三十五万石が置かれた状況は、他藩のそれとは比較にならぬほどに凄惨であり、かつ特異であった。
佐賀藩は、西国における幕府の要石として、長崎の警備という極めて重い国役を課せられていた。異国の影が絶えずちらつく長崎の港を監視し、防備を固めるためには、莫大な費用が湯水のように消えていく。しかし、幕府からの財政的な支援は一切ない。すべては藩の自己負担であった。この構造的な重荷に加え、斉直の常軌を逸した「奢侈」がのしかかっていた。結果として、江戸の商人たちに対する藩の借財は、当時の金額で八万両、現在の価値に換算すれば数百億円という、天文学的な額に達していたのである。
江戸の町において、佐賀藩の評判は地に落ちていた。商人たちは「佐賀の門前を通る際は、懐の紐を固く締めよ」と嘲笑し、屋敷の門前に押し寄せては昼夜を問わず催促の声を上げる始末であった。
(人間というものは、あまりに過酷な環境に置かれると、その精神が歪むか、あるいは恐るべき現実主義者へと変貌する。この日、上屋敷の一室で産声を上げた斉直の十七男「貞丸」――のちの鍋島直正は、明らかに後者への道を歩みつつあった)
貞丸の幼少期は、この「押し寄せる借金取りの足音」と、奥御殿から聞こえる父の遊興の三味線の音の狭間で過ぎていった。大名の子息でありながら、彼の衣服は常に擦り切れ、食事も一汁一菜という極めて質素な生活を自らに強いた。
天保元年(1830年)八月、貞丸は十七歳という若さで家督を相続することとなった。元服して「直正」と名乗った彼を待ち受けていたのは、祝福の声ではなく、現実という名の冷たい泥水であった。
家督相続の儀式を終え、初めて領国である肥前佐賀へと向かうため、直正が江戸の藩邸を出発しようとしたその時のことである。門前に、数日来張り付いていた江戸の商人たちが群れをなして立ち塞がった。
「鍋島様、これ以上の貸し付けはできかねまする! 過去の借財をいくばくかでもお支払いいただかねば、駕籠を通すわけにはまいりませぬ!」
大名の行列が、町人たちによって差し押さえられそうになるという、武士としては最大の屈辱であった。供の藩士たちは色を失い、刀の柄に手をかける者もいたが、直正は揺れる駕籠の中で、じっと目を閉じ、拳を血がにじむほどに握りしめていた。怒りのためではない。己の立たされた奈落の底の深さを、正確に計測していたのである。
「見よ、これが我が藩の、いや、徳川の世の現実である。私はこの恥を生涯忘れぬ。これより向かう肥前の地において、私はすべてを新しくする」
若き藩主の瞳には、古い時代を根底から叩き壊そうとする、冷徹にして強固な意志の炎が宿っていた。
第二章に続く。
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