黄金の飢餓
王を貫いた右腕から、熱い鉛を流し込まれたような衝撃が走った。
「――っ、あああああぁぁ!!」
男は絶叫し、その場に膝を突いた。
王の体内から溢れ出した数千年の「欲」が、行き場を求めて男の「空っぽの器」へと一気に雪崩れ込んできたのだ。
それは、単なる腹の空き具合といった生易しいものではなかった。
胃壁を内側から爪で掻き毟られるような激痛。喉が火を噴くような渇き。
視界が真っ赤に染まり、目の前にあるあらゆるものを食らい、飲み込み、自分のものにしなければ死んでしまうという、狂気じみた本能が男を支配する。
(足りない。何もかもが、足りない!)
脳裏には、数え切れないほどの人々の「執着」が幻聴となって響き渡る。
『パンが欲しい』『金が欲しい』『あいつの持っている靴をよこせ』『もっと、もっとだ!』
それらはどろどろとした泥流となり、男の魂を黒く塗りつぶしていく。
「あはは! すごいね、これがあいつの背負っていた『重み』だよ!」
妖精が、苦悶する男の周りを狂ったように飛び回る。
「見てごらん、君の剣を! 君の腕を! 欲を知ることで、君は今、ようやくこの世界に『触れて』いるんだ!」
男は震える手で、自分の顔を覆った。
今まで何も感じなかった灰色の世界が、今は耐え難いほどに「空腹」を刺激する。
崩れ落ちる壁の破片でさえ、何かの糧に見える。
男は必死に理性を繋ぎ止めようと自分の腕を深く噛んだが、その痛みさえも、飢餓感を増幅させるスパイスでしかなかった。
ふと、掌に残る錆びた剣を見れば、一箇所の錆が剥げ、そこには「飢え」を象徴するような、鋭く、けれど冷徹な銀色の輝きが一点だけ宿っていた。
王から「欲」を奪い取ったのではない。
男は今、王が代わりに背負い続けていた、人類という種が持つ「終わりのない業」を、その肩に引き継いだのだ。
背後で、天を突いていた黄金の塔が、断末魔のような地響きを立てて崩落していく。
かつて人々を魅了した白磁の壁は瓦礫となり、世界から贅の極みが消え去っていく。しかし、その崩壊と反比例するように、荒野には耳を劈くような「声」が満ち溢れていた。
「あああああ! 腹が減った、死にそうだ!」
「それは俺の石だ! 俺が先に見つけたんだ!」
男の視界に映ったのは、地獄絵図だった。
先刻まで石像のように座り込んでいた人々が、今は獣のように泥を掻き出し、わずかな乾いた草を奪い合って取っ組み合いを演じている。
親が子の持つ空の器を奪い、隣人が隣人の喉笛に指を立てる。
王がせき止めていた「飢え」という濁流が、堤防を決壊させて人々の理性を飲み込んでいた。
男は、胃を焼くような自らの飢餓感に耐えながら、その光景を呆然と見つめた。
自分が王を倒したことで、彼らを停滞という名の安らぎから引きずり出し、この凄惨な弱肉強食の世界へ叩き落としたのだ。
「……これが、君が望んだ『人間らしさ』の正体だよ」
妖精が、混乱の渦を避けるように男の肩に止まり、冷たく囁いた。
「醜いだろう? 浅ましいだろう? 欲とは、命そのものだ。そして命とは、他者の生を食らう呪いなんだよ」
その時、狂乱の群衆を割って、一人の男が悠然と歩み寄ってきた。
詐欺師のラットだ。
彼は、人々が奪い合い、傷つけ合う様子を、まるで極上の演劇でも観るかのような恍惚とした表情で眺めていた。
「素晴らしい……! 見ろよ旦那、これだ! これこそが俺の求めていた『市場』だ!」
ラットは足元に転がっていた「偽物のお守り」を一つ拾い上げると、大切そうに埃を払った。
「欲がなければ、救い(うそ)は売れない。だが、一度飢えを知った人間は、石ころにだって縋り付く。あんたのおかげで、俺の『お守り』は今、金貨百枚以上の価値になったわけだ」
ラットは皮肉な笑みを浮かべ、懐から一振りの短剣を取り出すと、それを自慢げに弄んだ。
「あんたは正義の味方のつもりかもしれないが、俺に言わせりゃ最高の相棒だよ。これからもせいぜい、世界中の『地獄』を解放して回ってくれ。そのたびに俺が、一番美味しい蜜を吸ってやるからさ」
ラットは高笑いしながら、飢えた人々が群がる村の方へと消えていった。
男は、自分の掌に残る錆びた剣を強く握りしめた。
一部だけ銀色に輝き始めたその刃は、かつてないほど重く、鋭く、男の手に馴染んでいた。
罪悪感と、耐え難い飢え。
それを抱えたまま、男は次なる王――「色(愛執)」を封じた静かなる湖へと、重い一歩を踏み出した。




