鏡の湖(承)
水面を歩くたびに、足元から「色」が滲み出してきた。それはインクが水に溶けるような、不確かで暴力的な鮮やかさだった。
「……見ろよ。君が歩くたびに、湖が思い出を吐き出している」妖精が顔をしかめて、水面から立ち上る淡い光の粒を見つめる。その光の中で、男は幻影を見た。
それは、黄金の塔にいた「欲の王」や「戦の王」たちが、まだ人間としての形を保っていた頃の断片だった。彼らは円卓を囲み、一人の騎士――自分によく似た、鎧を纏った男と言葉を交わしていた。
『これで、いいのだな?』一人の神が、苦渋に満ちた声で問う。
『彼女をこのまま死なせれば、世界に平穏が戻る。だが君は、それを望まぬと言うのか』幻影の中の「自分」は、迷うことなく頷いた。
その隣には、顔の判然としない、けれど陽だまりのような暖かさを纏った女性が座っていた。
『死など、いらない。彼女がいない世界に、明日がある必要などない』「自分」の声は、冷徹で、そしてあまりに傲慢だった。
その瞬間に、世界から色が失われ、空が灰色に染まっていく光景が重なる。
神々は彼に跪き、あるいは彼を哀れみ、それぞれの「業」を自らの体に封印する契約を結んだのだ。
「……私が、望んだことだったのか」男は立ち止まり、震える拳を握りしめた。
今まで自分は、神々に「奪われた被害者」だと思っていた。だが、湖が映し出す真実は残酷だ。
自分は、彼女を死から救うために、世界中の人間から「死」という安らぎと、生きるために必要な「毒(業)」を奪い去るよう、神々に強いた元凶だったのだ。
「気づいちゃった? そうだよ。君が『愛』というわがままを突き通したせいで、この世界はこうなった。神様たちは、君の共犯者であり、被害者なんだ」妖精が耳元で、嘲笑うように囁く。
「それでも、君は彼女に会いたいかい? 世界をこんな地獄に変えてまで守りたかったその『色』を、もう一度手にしたいかい?」水面から、彼女の笑い声が聞こえたような気がした。
それは今の男にとって、どんな叫び声よりも残酷な響きを持っていた。
けれど、男は歩みを止めなかった。
たとえ自分の過去がどれほど醜く、罪深いものであったとしても、この先に待つ彼女を――「死の王」となってしまった彼女を、再び自分の腕に抱くまでは。
男が強く一歩を踏み出すと、湖面は激しくひび割れ、その裂け目から、透明な色彩を放つ「色の王」の玉座が浮上し始めた。




