再び目覚める
ぴちゃり、ぴちゃりと音がして、マナカの意識はぼんやりと覚醒する。上にしていた左の顳顬の辺りを舐められているのだと分かれば、あの可愛い子熊の愛嬌のある姿が思い出されて、くすくすと笑みが零れた。
少し間を置いて頰をぺろりと舐められてれば、今度はくすぐったくて、またくくく、と笑いが漏れてくる。少しだけ抵抗するように顔を逸らして、上を向き「やめてよ、くすぐったい」と呟くが、今度は口元をぺろりとやられ、思わずマナカはんん、と困ったように唸った。しばらくの間場所を色々と変えながら、ぺろりとやられては、くすくすと笑うやり取りが続いた。
子熊の頭を撫でようと、寝ぼけながら手を伸ばせば、すぐに温かな毛にすっぽりと包まれる。その柔らかさに堪らず何度も撫でながら、気持ちいいなあ、とマナカは思った。
マナカの意識はまだ、半分夢の中にあって瞼もぴたりと閉じられている。その夢現の境で、子熊が小首を傾げ円らな瞳で見てくる様が浮かんで来れば、更に、口元が緩んだ。子熊の「クフクフ」という気持ち良さそうな声が聞こえてきた気がした。
何の前触れもなく、ふっと目が開く。
自分を取り囲む暗闇に夜の深さを感じて、再び寝入ろうと横向きに掛布に潜り込んだ。マナカのすぐ傍にマナカ以外の熱を感じて無意識に擦り寄ると、ぽかぽかと春の陽だまりの中にいるようで、あったかい。
あまりの心地よさに、再び急速に意識が落ちていく。その最中、また、月が二つ出ていたな、という考えが頭の中をかすめていった。
目が醒めると、辺りはほのかに白んでいて、ピチピチと鳴く冬鳥の歌が聞こえてくる。まだ日も登っていない早朝なのに、鳥たちも忙しないことだ。
ところで、自分の目の前で寝ているこの真っ白い人は誰だったっけ?とマナカは寝ぼけて働かない頭で考えていた。なにかの幻かと、緩慢に瞼を閉じたり開いたりしてみるが、果たしてその幻は一向になくならない。マナカはとりあえず、昨日あったことを順番に思い出していくうちに、はたと思い当たる。
これは神様だ。多分。
たった一度見ただけだから確信が少しだけ心許ないが、この白銀に光る見事な髪は見間違えようがない。
神様も眠るんだ、という新鮮な驚きと、これどうしようという、現実的な問題が交互に頭をしめていく。
だって、同衾しているのだ、神と。自分が。掛布の中で確かに一緒に寝ている。畏れ多いと離れるのは今更だし、かと言って寝たふりをするのもどうかと思う。
僅かにでも身動ぎすれば起こしてしまいそうで、右半身を下にしたままマナカは息を潜めてじっとしていた。良い案などちっとも浮かばない。視線だけを彷徨わせて目の前を見やれば、すぐ近くにある神の顔は女の人のように肌が滑らかで見た事がないくらい白く、ピタリと閉じられた瞼から髪の毛と同じ白銀の長いまつ毛が深い影を落としていた。唇も人のそれより白いが、心持ち薄紅色で、相手が寝ているのをいいことにマナカはうっとりと眺めずには居られなかった。
(こんな綺麗な人見た事ない)
マナカは自分からは下手に動けないと早々に諦め、人ならざる美しさを堪能していた。春祭りで選ばれる村の五月女よりよっぽど美しい。男神なのに女の人より綺麗なんて、とマナカは少しだけ呆れた。
(それに、食べるつもりならとっくに食べられちゃってる筈だし)
現状の正当性を得るためにマナカはよく分からない言い訳を自分にした。惜しくないと思っていた命だったが、目覚めてから昨日1日生かされたこの身では、死より生の方が身近にある。ならば、今逃げ出せばよいのだがマナカはそれをしたくなかった。何故なら、
(もしかしたら、オババとリシンの為に出来る事がまだ、あるかもしれない)
村の為に…家族の為に、とはもう言えない。
嘘でも言う事は出来ない。
あの日から言葉で何度も自分を殺してきた人達。その度に心を切り裂かれた。でも私だって、血の繋がりがないというだけで簡単に諦めてしまった。あんなに近くにいたのに、わかり合おうとしなかった。家族だけじゃない。村の人たちとだって、それだけの関係しか築くことができなかった。悲しいけど、それが事実だ。
後悔のない選択など、ないのかもしれない。
けれど、以前のようにもう見ない振り、聞こえない振りはしたくない。自分を憐れむことも、もうしたくない。どうしてそう強く思うのか、理由は分からないけど…。
変わりたいと、そう思った。
それからマナカは、異形の神をとっくりと見つめながら、祭の晩に交わされた神問いを思い出していた。狒神様と呼べば、そのような名で呼ぶなと、言っていた。祭のことも何も知らない様子だった。まだ、確信はないが、この神は狒神様とは違う神なのだ。もしそうなら、狒神様はどこに隠れてしまったのか。この神の意図は何なのか、知らなくてはならないと、そう思った。知る事が出来るのは今ここにいるマナカだけなのだから。
「穴が空いてしまいそうだな」
唐突に開かれた眼、聞こえた声に思わずマナカは息を飲む。人ならば白い筈の眼球が、艶のある暗闇のような黒で、人ならば黒や灰色といった瞳は金色に怪しく光っていた。マナカは瞬きも忘れ、それを凝視する。魅入っていると、言ったほうが正しいかもしれない。恐ろしさはない。色合いは不思議だが、何処かで、何度も目にした気がするし、神の目に現れた表情は、思いの外優しかった。
「その様子では身体の熱は収まったか、人の身は脆くて敵わねえ」
白い神は、唐突に半身を起こし、くわっと欠伸をした。と、思ったらさっさと立ち上がり、外に向かって歩き出す。そのしなやかな身のこなしは本当に眠っていたのかと疑うほどだった。
「あの!」
思わず声を掛けてから、そのような自分の振る舞いに吃驚していた。村にいた頃では考えられない積極性だ。だが、白い神はすたすたとそのまま歩き続ける。
「あ、待って」と言って、マナカも急いで寝床から這い出し、駆け足で後を追う。岩屋の入り口で追いつけば、少し明るくなった外の光に少しだけ目を細めた。
「神様、あの…」
「月人だ」
「忘れたのか?自分で考えた字名を。許す、呼べ」
「月人…様」
そういえばそんなこともあったような気がする。もう、遥か昔のことのように感じるが。
「なんだ」
月人はわざわざマナカの言葉を待ってくれていた。このように会話ができることにマナカは驚きながらも何か話さなければ、と必死に考える。
「どこかに出かけるの?」
祭の時に使っていた神問い言葉など所詮は付け焼き刃だ。つい素の言葉遣いになってしまい、流石に不味かったかと思ったが、月人はぴくり、と片眉をあげるだけでそれには触れずマナカに応えてくれた。
「狒々どもが騒がしい。足りぬ頭でも祭のことは分かっているのだろう。少うし遊んでくれようと思ってな」
月人は、口角を上げてそう言った。
マナカは必死になって考えを巡らす。狒々ども、と月人は言った。それはオチの村が信望する狒々神や狒神様とは別の物なのだろうか。
「アキ」
マナカは、『アキ』と呼ばれてはっと顔をあげた。そう言えば祭でマナカはそのように口上を述べた気がする。あの時は、アキの振りをするのに精一杯だっただけなのだが…今更だが訂正したほうが良いだろうか?
「アキ、ワシが戻るまで待っていろ」
マナカは一瞬視線を彷徨わせた後、こくん、と頷いた。帰ってきてから話をする機会もあるだろう。
月人は、それを見届けるや否や岩屋から跳躍して山の茂みに消える。まるで、風のようだ、とマナカは思った。




