目覚め
頬に違和感を感じて、マナカは反射的に顔をぶるり、と震わせた。重たく垂れる意識の澱に再び身を沈めようとすると、今度ははっきりと口元をざらざらとしたものが掠め、マナカは眉間に皺を寄せて再び顔を背ける。ふと、頭上でとてて、と妙に軽い足取りが聞こえ、ぼんやりとした頭で疑問を感じていると、今度は先程と反対側の頬をざらり、ざらりと舐められる。
マナカが驚いて反射的に目を開ければ、足元から差し込む光を直に見てしまう。マナカはその眩しさに思わず目を細めた。
再び頰にざらりとした舌が伸びてきて、マナカは慌てて傍に目を走らせる。そこに、思いがけずまだ小さな獣の姿を捉えて、マナカは目を何度もぱちぱちと瞬せた。
どう見ても子熊だ。子熊がマナカの頭の横で行儀よく床にころんと、座っていた。尻の座りが良くないのか片足だけがぴんと横に伸びている様が何とも愛らしく、マナカはしばらくの間まじまじと見てから、ぷっと噴きだしていた。
よくわからない状況で、ふと和んでしまえば冷静な頭ではて、ここはどこだろう、自分はどうなったのだろう、と現実的な疑問が湧いてくる。
とにかく、寝かされた状態では何も出来ないと、上半身を起こせば、身体中から痛みを訴えられ、思わずうっ、と呻き声があがった。
特に、腰と腕と脚が痛い。何とか身体を持ち上げて、自分自身を検分してみると、なんと裸であった。ただ、腕と脚にマナカが着ていた綿入りの下着がびりびりに裂かれ巻かれている。着ていた赤い着物は見当たらず、代わりに何処から持ってきたのか、薄水色の美しい打ち掛けが、掛布のようにマナカに被さっていて、床にも同様の着物が何枚か敷いてある。
ふと、周りに目をやればつるりとした岩肌が剥き出しになって三方を囲い、前方は、外の光が四角く切り取られ、ぽっかりと口を開けていた。不思議なことにさして寒さも感じず足元の巨石がほんのり温かいように感じる。マナカがかつて住んでいた、隙間風が吹き込む家より余程過ごし易い。硬い岩肌の上に数枚布を重ねて寝ているだけの、この寝床を除けばだが。
ずっと、眠っていたのだろうか。
自分のこの状態を見ればそうに違いない。とは思うが、何故ここに、いったい誰が、何の為に?と次から次に疑問が浮かんでくる。寝てる間に沢山の夢を見ていたような気がするが、それらが急速に霞みがかって、現実の問題へとすり替わっていった。ただ、頭は妙に晴れ晴れとすっきりしている。
「…お前、知らないよね?」
何を、とは聞かない。返事など返って来ないと分かっているので、必要がない。ただ、子熊はまん丸のつぶらな目をマナカに向けて少し小首をかかげて「クウ?」と鳴いた。その余りに無防備な愛らしさに、マナカの胸はきゅんと打たれてしまう。恐る恐る手を伸ばして頭を撫でれば、目をつぶって「クフクフ」と気持ち良さそうだ。
なんて事だ。馬鹿可愛い。何故、ここに熊が?母熊に見つかったら危険なのでは?と早急に対処した方がいいであろう問題を全部打っ棄って、マナカは子熊に癒される事にした。
子熊に離れがたさを感じながら、ようようマナカは動き出す。立ち上がると脚が萎えているのか、痛みも手伝って上手く動かない。岩屋の中は奥に比較的長いものの、そんなには広くなく、マナカと子熊以外の何物も隠れている様子はなかった。
マナカは仕方なく一度座り、上掛けにされていた打ち掛けを羽織った。マナカには少し大きなそれは、このままでは裾をずるずると引きずってしまう。自分のひざ丈に来るように裾を持って手に巻いてあった下着の残骸でつくった帯にねじり込めば、何とか形になった。
無理をせず、入り口の方まで四つん這いで這っていくと、道理で眩しいわけだ。一面の雪原が陽の光を受けて綺羅綺羅と反射していた。マナカは新雪の美しさに目を暴れた。次いで、冬の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込めば思わず笑みが零れ、脚の痛みも忘れて外に駆け出していた。
ところが、暗闇に慣れすぎていたマナカの目が、その光の強さに刺すような痛みを覚える。思わず目を細め、しばらく陽の光に慣れればと思って、手で庇を作って待ってみるが、目に刺さる痛みが和らぐことはなかった。
明らかに目がおかしい。寝ている間にどうにかなったか、その前にそういえば父親に妖しげな汁をさされたなとそこまで思い至ってようやく、狒神祭のことを思い出した。
忘れていた。本当に完全に忘れていた。
と、すればなぜ自分はまだ生きているのだろう?といった疑問が頭にもたげる。と言うか、おそらくあの打ち掛けや下着で作った残念な包帯はあの異形の神の仕業に違いない。神の身でありながら何故人の看病なぞするのだろう。マナカは自分の細腕を見やってふと、食いでが足りなかったかな、と思いついた事を呟いていた。
結局、辺りに神やその他の生き物の姿は見当たらず、また、マナカの目が光に慣れることもなかったので、苦肉の策で包帯の薄い部分を目にあてがい、薄布越しに景色を判じ、何とか行李まで辿り着いた。
恐らくそうであろう、と思っていたがマナカが寝かされていたのは、あの祭の晩に見た石舞台の中であった。
行李は全部で十五個あり、そのうちのいくつか、マナカが入っていた行李や恐らく打ち掛けが入っている行李などは蓋を暴かれ、或いは横倒しに倒されていたが、それ以外の行李はあの晩と同じく整然と並んで雪に埋もれていた。
マナカはその一つ一つを検分し、すぐに食べられそうな木の実や干物が入った行李を見つけると、運べるだけの分を自らが入っていた空の行李に入れて、巨石で作られた岩屋の中に運び入れた。何回かそれを繰り返し、また食べ物以外の動物の皮や布も更に運んだのちには、新雪をすくって舐め、喉の渇きを潤した。
行李の一つをすっかりばらばらにして、酷く曲がった部分を雪に晒した後、重石を乗せて真っ直ぐに伸ばし、所々を簡単に編み直して簡易の茣蓙をつくれば、既に陽はとっぷりと落ち、また夜がやって来ていた。
行李から木ノ実と干し芋をいくつか取り出して、子熊と半分に分けて食べる。長い間眠っていたせいで、身体全体がぎこちない。マナカは干し芋を時間をかけて口の中で何度も咀嚼してから少しずつ嚥下する。
辺りは既に暗闇に包まれているのに、何故かマナカの目はくうくうと寝入る子熊の姿や自分の手元が見えていた。篝火も松明も必要としない自らの目に違和感を覚えながらも、簡易の茣蓙の上に更に分厚く敷いた敷布の上に寝転がる。久しぶりに動いたからか、酷く疲れた。
打ち掛けや綿入りの襦袢を何枚も被れば、一刻もしないうちに睡魔がマナカを襲う。
明日、また考えよう。
マナカは再び、深い眠りについた。




