3-9 ある研究者の記録 表
理研、いわゆる理化学研究所。私は教授の下でアデノウイルスの種ごとの構造解析と感染に係わる因子の基礎研究を主に行っていた。有名医科大学の研究室出身とはいえ教授も私も女の身、スポンサーもあまりつかず、在籍できる期限も決められている中での基礎研究はあまり人気のあるものではなかったけれども・・・所長はその重要性を評価してくれていたし論文のインパクトファクターも中々悪くなかったと思う。
『アリゾナ病』については、感染症研究に携わる身として当初から大きな興味を持って情報収集にあたっていた。ただ、現在進行している研究に関してもほぼ休みなく泊まり込みに近い形で取り組んでいて、事が大きくなるまではその危険性について真剣に考えてもいなかった。これは他の研究室でも同じだったと思う、そして間違いだったとも。私たちはもっと早い段階から本格的に研究を始めるべきだった、多くの優秀な研究者がいなくなってしまう前に・・・。
教授は大学生の息子さんが下宿先で体調を崩したと聞いて、慌てて私に研究を押し付けて地方へと行ってしまった。この時はまだ、インフラも問題なく動いていて、数日間の辛抱だと思っていた。・・・でも、教授はそのまま帰ってくることは無かった。
私も父母がいたけれども、弟が地元で面倒を見ていたため安心していた。電話がつながらなくなる前まではみんな元気だと聞いていたし、今も他の都市の名簿に名前が載っていて運がいいほうだと思っている。
他の都市の名簿について知ることができたのも、私が今臨時で立ち上げられた器質性意識水準低下症候群研究対策室の一員として与えられた研究室で昼夜問わずに研究を続けているからだ・・・長いので対策室とみんな呼んでいる。各地から集められた研究者と共に都市内に建てられた施設で働いており、情報や生活物資のある程度の優遇措置があった。もはや個人としての通信はアナログな無線装置を持つ趣味人の特権となっていたけれども都市間ではそれ以外にも衛星を利用した通信ができていて、様々な情報がやり取りされていた。
主要な都市間のみならず、日本各地の研究所や大学ともデーターベースを共有して情報を集めている・・・状況が状況なだけに情報は錯綜してしまっている、有象無象の情報を精査し評価を行うのも対策室の仕事だった。中には民間療法や明らかにおかしなデータさえ報告されている、参加している施設の母数もじりじり減ってきているし、もう真面な判断が下せないところもあるのだろう。
ただ、最近報告された地方の独立した大学からの報告は中々に面白いものだった。感染者を臭いで遠ざけるというシンプルなものだったけれども、こうして籠っている私たちには無い発想だった。臭気物質を産生する細菌の培養法も見たところ問題なかったし、武器を持つことが許されていない市民の非常時の自衛用としてアンプルやスプレーといった形での配布は検討に値するし、一部の自衛隊員による放棄地域からの物資収集には役に立つかもしれない。そして同じ大学から、逆に良い匂いによる誘因効果のデータもあり、肉エキスと焼き肉のタレをベースとしたものを加熱しつつ噴霧すると感染者たちは集まってくるらしいく、最初はなんのためにと疑問視したけれど、これもうまく使えば囮として感染者を集め、一斉に処分することが可能ということだった・・・よくそんな過酷な生活をしつつ研究を行っているなあと感心してしまった。
さて、私たちの研究の目的は大きく分けて2つ、『アリゾナ病』の感染経路を明らかにすること、そして予防もしくは治療方法の確立。
まったくもって、これらは順調では無かった。




