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よろず歌詠む、化生守の調べ  作者: 片平 久(執筆停滞中)
故話ノ三【つれなき人の、心なりけり】 ~ 半夏生/蓮始開
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つれなき人の、心なりけり【後編】



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蓮葉(はちすば)の (にごり)りに()まぬ (こころ)もて

なにかは(つゆ)を (たま)とあざむく

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『古今和歌集』巻三・一六五  僧正(そうじょう)遍照(へんじょう)





 弾き終わり、イチシは三絃を脇に置いた。そして為斗子(いとこ)に向き直り、少しだけ膝行して距離を詰める。膝触れあわない、のばした手もわずかに届かない、距離。


「…………なんで、この曲?」

「さあね……為斗子のことを思っていたからかな?」


 少し困った風に装い、少しおどけた口調で言葉を返す。憂いを帯びたように見える(・・・・・・)であろう(おのれ)の表情を為斗子に向けて、穏やかに優しく微笑む。

 案の定、為斗子の口元が少し歪んだ。

 歌意を全て聞き取れてはいないだろうが『追善曲だ』と伝えたこともあり、また端々に現れる亡き人を偲ぶ言の葉に、陰を感じるのは無理もない。


「……『たがわの水の流れをば、幾千代かけて汲むならん』

 為斗子。私は“三ツの()調(しら)べ”にのせて、いつまでだって為斗子を待つよ。……急がなくてもいい。私の心は変わらない。“忘れ草の種”にはならないよ」

「…………イチシ、私、難しくて、よく分からないよ……」


 伏せられたまつげが、為斗子に影を落とす。

 “分からない”のは、引いた言葉の意味なのか。それとも彼女の心内なのか。

 憂いを載せた眼差しがキュッと結ばれた手を見つめ、小さく肩を揺らす。

 惑う心を、揺れる気持ちを、もてあまして。


  (わす)(ぐさ) (なに)をか(たね)と (おも)ひしは

  つれなき(ひと)の (こころ)なりけり


 古今に詠われた“忘れ草”は、実在の花を詠むというよりは人を恋い慕い嘆く気持ちの、心象の姿。移ろう人の心の儚さは、当人であっても(とど)める術を持ち得ない。


 だが、己は【化生(けしょう)】――アヤカシのもの。

 その(しょう)ずる所も知らず、()る所も持たぬ身には、(うつ)ろう先さえ在りはしない。

 ただ、ひたすらに。

 ただ一つの願いだけを、抱いたままで。


 人の心は、揺れ移ろう。

 だから。

 己に向けて、揺らしてしまえばいい。

 他のどこにも移ろわぬよう、大切に捕らえてしまおう。

 扉の開いた籠の中、必ず戻ってくるように。


「――さ、為斗子、一緒に弾こう?」


 慈愛の中に哀愁を隠した表情に見えるよう(・・・・・)、為斗子に柔らかく微笑みかける。いつものように、穏やかに、愛おしげに。

 腰を浮かし己に(にじ)り寄る為斗子の肩を軽く押さえ、自分用の箏に向かうためにイチシは立ち上がった。背にすがりつく視線を感じ、ほくそ笑む。そう、それでいい。


「イチシ……」

「うん? どうしたの、為斗子? 大丈夫、練習だからね」


 不安を隠さない為斗子の視線を、わざとはぐらかす。

 ああ、己のことを思って揺れる心は、どうしてこうも甘美なのか。わき上がる喜悦のままに、イチシは極上の笑みを返す。

 やがて渋々と為斗子が箏爪をはめ、指を滑らせる。合わせ爪で和音をとって確認し、割り爪、押し合せの指を慣らす。指ならしと心の準備ができたのか、為斗子が顔を上げて小さく頷いた。


 トントンと、軽く象牙の貼られた龍角(りゅうかく)を指で鳴らしてテンポをとり、涼やかな和音から前弾きが始まった。

 『夏の曲』は、古今和歌集から採った夏の四首を歌詞とする古曲。シャッテン、シャッテンの手が華やかな水の流れを映し出す。



 夏山(なつやま)に (こい)しき(ひと)や ()りにけん

 (こえ)()りたてて ()くほととぎす



 山に帰る時鳥(ホトトギス)への諦観と憂愁を詠んだ紀秋岑(きのあきみね)の二首目の歌詞が終わると、音替えのある手事が続く。サラリンの音色が、夏の清涼さを感じさせる、幾分ゆったりとした手事の始まり。

 低音の押し手がややおぼつかない為斗子だったが、無心についてくる。やがて始まる軽やかな本手と替手の掛け合いに、為斗子の音色が落ち着きを取り戻す。

 心を添わせ、音を添わせ。相手の音を聞き、自らの音を重ねる。

 三曲(さんきょく)合奏もいいが、同楽器での合奏はなお一層の調和を必要とする。相手の音を、相手の手付きを、ただひたすら追い寄り添う。為斗子の心が、己に添う。



 蓮葉(はちすば)の (にごり)りに()まぬ (こころ)もて

 なにかは(つゆ)を (たま)とあざむく

 (なつ)(あき)と ()きかう(そら)の (かよ)()

 (すず)しき(かぜ)や ()くらん



 僧正(そうじょう)遍照(へんじょう)凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)と続いた後歌と共に、曲が終わる。客間の先に広がる東南の庭には、夕日に押される軒の影が長く伸びていた。

 ほぉ……と一つ長い息を吐いて、為斗子は少しはにかんだ笑みを向けた。途中、幾つか手が合わなかったことを恥じるものなのか、それとも。


「いきなりだった割には、弾けた方……かな? どうだった?」

「そうだね。でも『古今組』くらいは、いつでも弾きこなせないとね? 『千鳥』のように、暗譜で弾けるよう練習しないと」

「うーん、『夏』は他より難しい感じなんだよね。まだ、無理」

「じゃあ、この夏の課題だね。大丈夫、一緒に弾いてあげるから」

「ええ~、イチシとの練習、長くなるんだもの……今日はもう勘弁してよ」


 押し手や音替えなどで緩んだ琴柱(ことじ)を戻しながら、為斗子の口元がわずかに引き攣れる。再び古今調子に戻したものの、しばし天井を見上げて思案した為斗子は夏山調子に合わせてしまう。


「後は一人で練習するから……イチシは聞いてるだけにしてよ」

「それは残念……『時鳥の曲』? 季節はぴったりだけど、ツルシャンものの練習するよりは、『水の変態』の方を練習すれば?」

「そっちはもっと無理!」


 屈託のない華やかな陽音階の夏山調子で、ホトトギスの鳴き声を模した音調が為斗子の指先から生まれていく。


  (いま)さらに (やま)(かえ)るな ほととぎす

  (こえ)(かぎ)りは ()宿(やど)()


 軽やかで弾むような手事の調べが終わり、詠み人知らずの歌より採った後歌が静かに響く。

 ああ、そのとおり。

 還らないで。どこにも行かないで。

 ずっと私の側に居て。


 清冽な夏の調べに、心の(おり)が少しずつ流されていく。

 心の中に、雨はまだ降り続く。

 なれど、雲は薄く明るく、雨足は白糸のごと細くなる。


 為斗子がどこへ行こうとも。

 己は帰る山になろう。鳴く宿となろう。


 そうとは気付かせぬ、広い、広い檻の中。

 珠とあざむく蓮葉の露の連で、彼女を飾り繋ごう。



「……為斗子。私は幸せだよ……」

「イチシ?」


 シュッという輪連(われん)と合せ爪で曲が終わる。その余韻のままに、イチシは情感豊かにつぶやいた。

 為斗子の背にまわり、いつものように抱き締める。填まったままの爪を外し、その四本の指を握りしめる。


「……明日は楽しんでおいで。私は為斗子の帰りを待っているから」

「…………うん」


 ためらいがちの返事。背後にあってうかがえない表情には、きっと何ともいえない苦悩の色が滲んでいることだろう。

 そう、それでいい。いつ、誰を思おうとも。常に己を片隅に置いていればいい。


「さ、こっちの片付けは私がやるから。為斗子は夕食を作ってくれるかな?」

「うん……あれ、でも一緒に作ってくれるんじゃないの?」

「もう時間がないから、為斗子に任せるよ」

「何それ、ずるいんだから」


 振り返った表情には、どこか稚気がちの不満の色が浮かぶ。たわいのない日々のやりとりの中に、積もり重なる穏やかな慕情。培われた日常は、広い広い檻となる。

 逃さない、今度こそ。

 ゆっくりとその腕を放し、台所に向かう為斗子を解放する。

 『いーっだ』と小さく舌を出して笑い、広縁をパタパタと去って行く為斗子の姿に、あたたかな熱が生じる。心の雨がなお弱り、温風(あつかぜ)が雲を払い始める。

 やがて漂う出汁の香りに、イチシは日の落ちかけた空を見上げる。薄明かりの中、上弦の宵月が初夏の風を呼んでいた。



* * *



「じゃあ、行ってくるね」

「うん、気をつけて。ちゃんと券は持った?」

「子どもじゃないんだから、大丈夫よ! ……うん、ちゃんと持ってる」


 口とは裏腹に、少し不安そうに手に持った東袋(あずまぶくろ)の中を確認する為斗子は、新しい封筒に収められたそれを確認してほっと息を吐いた。

 思った通り、秘色(ひそく)の紋紗地小紋は為斗子を涼しげに粧い、半夏生(ハンゲショウ)の鮮やかな緑を引き立てた。為斗子が選んだ平絽の帯揚げは、少し色濃い新橋色(しんばしいろ)。今日の空のように澄んで鮮やかな真空色(まそらいろ)の帯締めに、真っ赤なトンボ玉の帯留めを飾り、同じ色合いの草履の鼻緒と共に変化を効かせていた。『暑くなるだろうし』といって(ちり)除けに選んだのは、紋紗ではなく(ほたる)暈かしのオーガンジーレースの夏羽織。白縹(しろはなだ)から透ける半夏生が、その花言葉、“内に秘めたる情熱”の通り、霞の中で艶やかに咲く。

 誰が為の“粧い”であろうとも。

 その身と心があればいい。


「……行っておいで。ちゃんと帰ってくるんだよ?」

「今日の予定は、これだけだよ? せっかくだからちょっと買い物してくるけれど、夕方には帰るから。待っててね。お土産、何がいい?」


 知ってか知らずか、無邪気に笑う為斗子。その頭をポンポンと優しく撫でて、イチシは為斗子の背を押した。


「あ、そうだ、イチシ」

「ん? 何か忘れ物?」


 玄関戸を閉めてすぐ、再び為斗子が顔を出す。


「違うけど、違わないかな? あのね、仕立て部屋にかけてある長着――」


 昨日、為斗子が仕上げていた明るい青の明石縮(あかしちぢみ)。客のものなのかどうか分からぬ、業平菱(なりひらびし)の男物。広縁越しに見えた勿忘草(わすれなぐさ)の色と、その時の為斗子の柔らかい笑みが蘇る。


「あれ、イチシのだから。今年の夏用。後であててみて? 具合が悪いようなら、戻ってきてから直すから。じゃあ、今度こそ行ってきます」


 カラカラ……と軽い音を立てて再び戸が閉まり、外から鍵をかける音がする。

 イチシは上がり(かまち)で立ち尽くし、やがて自嘲に富んだ息を漏らした。

 ――広い檻に囚われているのは、彼女か、己か。

 互いに捕らえ、囚わるる、その“幸せ”を誰が知ろう。



 人の心は、たやすく移ろう。

 その儚さに嘆くものもあれば、喜びを得るものもある。

 ――ひとたび乞い望んで以来、変わることなき己の果報と業を、はかなき血潮につなぎ願う、浅ましさを。その幸魂が払いゆく。

 藪萱草(ワスレグサ)の種は要らない。

 己の澱と憂いを払うのは、ただ差し伸べられるその心だけ。



 二人だけの檻に囚われる時を、ただひたすらに待っている。







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《作中の詩歌たち》

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●表題 + 前編前書き + 後編本文

【忘れ草~】

:おおよその歌意

 《忘れ草は、いったい何を種にしているかと思っていたら、つれなく心変わりする人の心だったのですね。》


●後編前書き + 『夏の曲』の歌詞

【蓮葉の~】

:おおよその歌意

 《蓮の葉は泥水の中にあっても汚れないという気高い心を持ちながら、どうしてその上に転がる露を美しい珠と欺くのだろうか。》

※中編での、イチシの心の声『(はちす)葉を転がる露を、珠のごとくに(あざむ)きながら、澱によどんだ中に咲く。』の元ネタ。


●後編作中曲『時鳥の曲』の歌詞(後歌)

【今さらに~】

:おおよその歌意

 《時が来て山へ帰ってしまうのは仕方ないとはいえ、今更帰らないで欲しい。どうか、その声が続く限り、私の家で鳴いていて下さい。》


※他にも作中曲に複数の詩歌が読まれていますが、以下省略。今話はほぼ全て『古今和歌集』から採りました。万葉は素朴、新古今は技巧的、という感じで、作者は『古今』の歌が一番好きです。


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《邦楽・楽曲のアレコレ》

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(なつ)(きょく)

吉沢(よしざわ)検校(けんぎょう)作曲の、地歌箏曲。幕末期に作られた新様式の曲で『古今調子(こきんちょうし)』という独特の調弦を用います。

:同じ様式で作曲された『春の曲』『秋の曲』『冬の曲』『千鳥の曲』の五曲を総合して【古今組(こきんぐみ)】と呼びます。名の由来は一首をのぞき、歌詞が全て『古今和歌集』の詩歌から採られているからです。

:『夏の曲』は、古今組の中では季節感にあったアッサリした曲調ですが、難易度は人それぞれ。作者は結構弾きやすいと思いました。為斗子は違うらしい。


時鳥(ほととぎす)(きょく)

楯山(たてやま)(のぼる)作曲の「明治新曲」の一つ。いわゆる「古今十二曲」と呼ばれるものでも代表曲の一つです。

:作中にある『ツルシャンもの』という表現は、この『時鳥の曲』を代表曲とする独特の奏法を用いる曲群のことで、右手のスクイ爪に加えて左手で和音を重ねる技巧が特徴です。明治末期に流行しました。

:歌詞に『古今和歌集』でホトトギスを詠った和歌を採っています。また「夏山調子」という独特の涼やかな調弦を用い、軽快な曲調と共に夏らしい風情の名曲です。


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《和装のアレコレ》

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【イチシ用の夏着物】(為斗子サプライズ)

勿忘草(わすれなぐさ)色の、業平菱(なりひらびし)明石縮(あかしちぢみ)

:「明石縮」は、正式には「十日町明石縮」という新潟で作られる絹織物です。「縮(ちぢみ)」は、緯糸に強い撚り糸を用いてシボという細かな皺を出す織り方で、夏の素材として一般的なものです。多くは麻の縮ですが、明石縮は絹で織ります。現代では高級素材になってしまいましたが、昭和初期頃に大流行したそうです。その後しばらく絶えていましたが、今は伝統的工芸品指定を受けて復刻しています。

:「業平菱」は、いわゆる三重襷(みえだすき)柄の菱型の中に花にも見える四菱を組み入れた文様です。優雅な様が「平安貴族の在原業平のよう」と言うことで、業平菱と呼ばれるようになりました。

:「勿忘草色」は、明治頃から使われるようになった色名で、明るく可憐な風情の明るくグレイッシュな水色です。カラーコードなら#9CC5E6くらい。

※イチシさん、だまされる(?)の巻。



***********

-----本当の後書き-----


イチシさん視点でお届けする『為斗子には内緒』編。第三弾です。

今話の内容は、どちらかというと【本編】としてお届けする方が適切なのでしょうが、どうしても「イチシの視点で、為斗子の様子を語る」話にしたかったので【故話】の扱いになりました。

本作では、【本編】(第○話)は《為斗子視点》、【故話】(故話○)は《イチシ視点》の、三人称風でお届けすることにしています。(なお【余話】は企画モノや季節モノにのっかった番外編)


例によって、和装描写が無駄に情熱的です。……うん、旭くんを笑えない(汗)

今話は、和装の柄と楽曲詩歌で心情・情景を描き出す、という構成でしたので、仕方ないのですが……読者に優しくないですねぇ~。

申し訳ありませんが、本作は『こんな風に作者が趣味嗜好をダダ漏れさせている作品』として諦観くださると幸いです(苦笑)


なお、今話の裏テーマは『カビが生えそうなほどに、ウジウジうざったく病んでる感じのイチシ』だったのですが……いかがでしたか?

乙女なイチシ、病んでるイチシ、そして為斗子に実は翻弄されているイチシ、を少し表現できた……かな?

前話(本編 第七話)と連続した構成だったので、細かなプロットは早い段階で作成済みだったのですが、ちょうどの季節の時に作者がヘタレていたために中々書けませんでした。病んでる感じは、病んでる時には書くべからず(謎)

それにしても『ヤンデレ』って、読んでいると書けそうと思ったのですが、いざ自分が書くとなると難しすぎます。どんな思考してんだよーーっ(涙)


今話で、本当に少しだけですが『【化生】たるイチシが【化生守】を求める理由』を仄めかす内容を入れてみました。とても伏線と呼べるようなものではなく、まだ何がなんだか分からない“ほのめかし”ですが、今後「結」に向けて少しずつ描写していこうと思います。


危うい二人の、歪な幸せを。どうぞ、この先もお見守り下さい。


お読みいただき、ありがとうございます。次話もどうぞよろしくお願いします。



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