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結 彼方の貴方へ

 先触れの小早によって宮江方勝利の報が島にもたらされ、神社にも注進が届いた。

だが、本殿に籠った弓姫は祈りの姿勢を解こうとはしなかった。


 御無事のお姿をしかとこの目で拝見するまでは、祈らねば。護らねば。



 「姫様!船が……」

「皆様、御帰還でございます!」

外で呼ばわる侍女達の声に、神前に額づいていた弓姫はゆっくりと顔を上げた。


 御帰還?

御凱旋、の間違いではないのか。

太鼓の音と、水夫達の櫓漕ぎの掛け声で、勝利の凱旋か否かはここからも判るはず。


 弓姫は本殿から外へ出た。

風が、後ろでひとつに結わえた髪を大きくなぶって過ぎた。

肩に掛けた二枚の領巾ひれの端が、背中にひらひらと舞う。


 境内を横切って、侍女達がいる見晴らしの良い一角に近寄ると

「姫様」

侍女の一人が不審げに言った。

「主船に……宮江の旗が見えませぬが」


 刹那、弓姫の中で、どくん……と大きな音がした。


 例え負け戦でも、総大将…総領が乗船している限り、主船の大将旗を降ろす事は有り得ない。

まして此度は勝ち戦。旗を掲げぬ理由がない。

そう……総領が乗船している限りは。


 「御凱旋の掛け声も太鼓の音もないとは……」

「勝ち戦にてこのような事、今まではなかったのに、如何したのでしょう?」

侍女達が一様に、首を傾げる。

今まではなかった。

今までは……。


 いや――あった。


 心のずっと奥深くに潜んでいたある記憶に、弓姫の思考は凍りついた。

ここで、ふたり並んで見た光景と、同じ。

あれは五歳の折の事。


 あれは……先々代様、御討死の時だった。


 「姫様……?」

「如何なされました、姫様」

弓姫は食い入るように、粛々とこちらへ向かって来る船団の、中央を進む主船を見つめていた。


 まさか、まさか……まさか――!


 船団から離れて入江に入って来た先触れの小早の舳先で、誰かが大きく叫んだ。

「御館様討死ーっ!」

その声を、弓姫の耳ははっきり捉えていた。

「……今、何と……?」

侍女達が、ざわめく。


 嘘――。



 呆然とその場に立ち尽くす弓姫の前に、程なくして下から駆け上がって来た伝令の小者が膝をついた。

「申し上げます!御館様、御討死!」

「何と……そのような!」

「勝ち戦じゃと聞いたに、何故!」

弓姫の側に控えた侍女達から、驚愕と悲嘆の声が洩れる。


 「我が方の勝利疑いなしと見極めし後も、御館様には舳先に立たれて皆を鼓舞なされておられましたが……側面より奇襲を受けし折に総身に矢を受けられて、海中へそのまま……」

そこで絶句した小者は、溢れる涙を拭いながら

「まことに天晴れな御最期でござりました!」

叫ぶように、言った。


 総身に矢を受けられて……海中へ……天晴れな、御最期。

……うそ……じゃ。


 頭の中にわんわんと響く、凶つ言の羅列を振り払うように、弓姫はかぶりを振った。

「うそ……そんな……」

「姫様お気を確かに!」

「うそ……うそじゃっ!」

「姫様!」

「うそ……いや……いやあ、あああっ!」

「姫様っ!」

鉢巻が外れるほどに髪を振り乱して叫ぶ弓姫を、慌てて侍女が取り押さえようとする。

「お静まりませ姫様っ!どうか落ち着いて……」


 嘘。

嘘だ、みんな。

これはあの、嫌な夢の続き。

こうして叫んだら、目が覚める。

目が覚めたら、みんな嘘になっている、夢になっている。

だから早く、早く覚めて。

早く。

早く……。



 叫ぶのも頭を振るのもやめ、両手をだらりと下げて。

弓姫は空中に虚ろな瞳を向けた。

 

 凶々しい夢占は、見事に的中してしまった。

……祈ったのに。

あんなにも祈ったのに。

我が命に代えても護らせ給えと……ずっと祈ってきたのに。ずっと。


 嘘だ。

信じない。こんな事。

信じないわ。


 太郎様はただ、何処かに隠れているだけ。

捜せばきっと、見つかるはず。

きっと。


 だから、捜しにゆかねば――わたくしが。


 「姫様!」

取り縋る侍女を振り切って、弓姫はふらふらと二、三歩歩き……いきなり走り出した。

「姫様どちらへっ!」



 ああ。

海は、今日も青い。


 あの島を越えて。

もうひとつ向こうの島を越えて、彼方の空の下。

あのあたりにいるのね、貴方。


 「斎の姫様?……何を!」


 数多の矢をその身に受けて。

水面を、朱に染めて。

痛かった?

苦しかった?

水は冷たかった?


 だけど何だか、心地良いわ、わたくしは。

暑さのせいかしら。

足に絡まる波が、とても心地良いの。

とても…。



 「だ、誰か来てぇ!」

「誰か!斎姫様が海へ……!」

「お戻り下さいませ、姫様っ!」

「姫さまぁっ!」


 境内から走り出て。

追ってきた侍女が見失うような、幼い日の秘密の小道に我知らず入って。

どこをどう歩いたのか、海辺に辿り着いて。

砂浜から、波打ち際へ真っ直ぐに。

そしてそのまま波間を、弓姫はざぶざぶと歩いていた。


 「斎姫様ぁっ!お戻りをっ!」



 ……いいえ。

わたくしは斎姫ではない。


 まがつ夢を払う事が、遂に出来なんだ。

禍々しい運命から貴方を護る事が、叶わなんだ。


 総領を護れぬ一の姫なぞ……もはや、斎姫とは言えぬ。


 ……それは、恋ゆえに?

斎巫女たる身で、貴方を密やかに恋い続けたがゆえの。

御出陣を前に貴方の許に走った、貴方と触れ合うたがゆえの。


 これこそが――わたくしへの、報い?


 ……ならば。


 人恋うたがゆえに。

貴方を恋うたがゆえに。

神が下された報いが、これならば。


 ならば、わたくしはこの身を以て、その罪を償うのみ。

この身を、以て。


 『弓あってこその矢だ』

貴方はそう言った。

弓あってこその、矢。

矢あってこその、弓。


 つがえる矢を失った弓は、もう用をなさぬ。


 貴方の夢が砕けた、その時。

それを護りたいと願い続けたわたくしの夢も、終わった。

全てが……終わったのだ。



 「姫様ぁぁっ!」

「なりませぬ姫様っ!」

砂浜を駆けて来る侍女達の絶叫に振り向きもせず、弓姫は歩く。

解けて流れる長い髪と、肩に掛けた領巾の端を風になびかせて。

ひたすら、何かを目指しているかのように、歩く。



 ……太郎様。

どこに、行ったの?

どこに、いるの?


 「……もーう、いいかぁい?」

彼方に向かって、呼ばわってみる。


 「もーう、いいかぁい?」

返事は、ない。


 「……行くわよ」


 きっと、捜し当ててみせるから。

この、海の中のどこかにいる貴方を。

息をひそめて隠れている貴方を。


 急を聞いた父の四郎美弘や叔父の五郎美春らが浜辺に駆け付ける頃には、弓姫は腰まで海に浸かりながら、遠浅の海を遥か沖に向かって歩いていた。

「於弓っ!」

「於弓ーっ!」

名を叫ぶ声に、歩が止まる。振り返る。


 ……太郎、様?


 「待て於弓!早まるなっ!」


 ああ、叔父上。

危うくお声に騙される所でした。


 「太郎はそんな事、望んでおらぬ!戻ってこい於弓っ!」


 いいえ。

太郎様はどこかで待っている。

今度こそ見つけられるはずがないと、ほくそ笑みながら。

わたくしが捜しに行くのを、待っている。


 『太郎様、みいつけた!』

そう言われて

『まず見つからないと思ったのに……』

ぶつぶつ言いながら出て来る時の、あのお顔が、早う見たいから。

必ず、見つけてみせるから。


 待っててね、太郎様。

待っててね。

待っ……。



 花のように、微笑んで。

二枚の領巾の端を、宙にふわりと舞わせて。


 仰向けにゆっくりと崩折れるように……弓姫は波間に姿を消した。

「於弓―――っ!」



 『斎姫入水』の報に、皆騒然となった。

四郎と五郎は鎧を脱ぎ捨てて即座に海に飛び込み、弓姫が消えたあたりを必死で捜し回ったが、付近の潮の流れが早く、既に近辺に彼女の姿は見えなかった。

入江に戻って来たばかりの小早が数隻、すぐに浜辺に回って付近を広く探索した。

網を打ち、大勢の水夫達が水に潜って捜したが、彼女を見つける事は出来なかった。


 翌朝になって、浜に二枚の領巾が打ち上げられているのが発見された。

だが。

弓姫が宮江に戻る事は、遂になかった。

彼方の波の下に沈んだ、太郎美矢と共に――。



 宮江家総系図は記す。

『廿八代 美矢 太郎・左衛門尉 明応四年討死。歳廿四』

短命ながらその事績として、数々の戦にて功を立て、宮江一族隆盛の礎となった事が述べられている。

そしてその弟達の横に、太郎美矢の父・二十七代総領の次弟のむすめとして、

『女子 斎媛 明応四年没 歳廿四』

この当時、通常は女性の名は伝わらないながら、歴代の斎姫同様『女子』の横に小さく

『弓』

と書き添えられている。一族の護り神ゆえの破格の扱いであろうか。


 もとよりこの系図からは、同年に同い年で没したふたりの生涯の有り様など、知る術もない。


 室町末期に成立したとされる『宮江家譜』には、当時の古老の話として、名は記されていないがとある総領と時の斎姫の話が載っている。

筒井筒の従兄妹として育んだ恋を諦めたふたりが、総領と斎姫として共に宮江を護り、やがて総領は宮江の権益を守るための他島との戦に勝ったものの自身は戦陣に斃れ、姫は彼の死と、彼を護れなかった己の無力を哀しみ海に沈んだ――と。


 門外不出のこの書は、宮江本家の蔵の奥深くにあり、普段は人目に触れることはない。


 宮江一族は連綿と現代に血脈を繋いでいる。

一族の直系の家の長男は数えで十五の正月に『元服式』に臨み、その折に、彼にもっとも血の近い女性が選ばれて神前に舞を捧げる。

昔の『斎姫』制度の名残りでもあろうか。


 その風習と共に、ひとつの伝説が宮江島に残っている。

戦に明け暮れた世の、従兄妹同士の総領と斎姫の悲恋。

もはや名も定かではないふたりの、短くはかない物語が、代々の口から口へと伝えられてきて。

――そして、今の世に至る。



=完=

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