File-07【業務日報】物理制圧のご報告 ――猫吸いならぬ白虎吸いは正義です
「……あの日の貴女の瞳は、泣くことすら忘れた獣のように冷たく、ひどく痛々しかった」
沙羅姫の静かな声に、私はハッとして顔を上げた。
「あの頃の琥珀は、触れれば血が噴き出すような抜き身の刃だったわね。……厄介な禍憑きを次々と祓ってくれて、とても便利ではあったけれど」
「ちょ、黒歴史掘り起こさないでよ……!」
当時の尖りきっていた自分をからかわれ、私は気まずさに目を逸らして小さな苦笑を漏らす。
その時だった。視線の端で、沙羅姫の後方に控える『嶺』とふいに目が合った。
彼女の彫刻のように整った顔は、いつものように静謐さを保っている。
しかし、その涼やかな瞳の奥には、主君の過剰な寵愛を一身に受ける者への、抑えきれない微かな嫉妬の光が揺らめいていた。
(いや、そんな重たい目で見られましても……私だって好きで囲われてるわけじゃないんですけど……)
いたたまれなさに内心でぼやいていると、不意に、頬を撫でるような艶めかしい仕草で、私の銀糸の髪が一筋、沙羅姫の細く白い指に掬い取られた。
「よそ見は駄目よ、琥珀」
ドキリ、と嫌な音を立てて心臓が跳ねる。
見上げれば、蠱惑的に微笑む沙羅姫の顔がすぐそこにあった。
その眼差しは、生殺与奪を握る絶対者のそれでありながら、同時に底知れぬ情念と執着を湛えている。
至近距離に立つ彼女から漂う、肺の奥を重く満たすような幽玄な香気が、私の脳内にこびりついていた五年前の冷たい雨の記憶を、静かに溶かしていく。
「あの日、私は貴女のすべてを引き受けると決めたの。貴女の復讐も、貴女の命も、白虎の力も」
逃げ場など、どこにもない。
「……だから。今更一人で泥に沈むことも、私から逃げることも、絶対に許さないわ、琥珀」
⭐︎
「……っあ゛ーーー……」
玄関の鍵を閉めるなり、私はスニーカーを脱ぎ捨てるようにしてふらふらとリビングへ歩き、そのままソファへ頭からダイブした。
どっと押し寄せた極度の疲労と緊張の糸が切れた反動で、指先ひとつ動かす気になれない。
クッションに顔を押し付けたまま情けないうめき声を上げていると、ふわりと、白虎の秋晴れの空に似た爽やかな神気が鼻腔を満たした。
『クルル……』
短い慰めのような喉鳴りとともに、白い毛玉がソファの横にすり寄ってくる。
「ハクぅ……ただいまぁ……」
私は重い腕をなんとか持ち上げ、その豊かでモフモフとしたハクの背中に躊躇いなく顔を埋めると、肺の奥にこびりついた重苦しい香気を追い出すように、思いっきり深呼吸をした。
「すぅぅぅぅぅ……はあぁ……落ち着くーーー」
これが、限界を迎えた術師による全力の『猫吸い』である。
「ハクぅ……疲れたよぉ……姫ちゃんこわい……心臓もたない……」
『ルルッ……』
クッションとハクに顔を押し付けて駄々をこねる私に、彼はすりすりと優しく頭を押し付けてくる。
同時に、魂の奥底で繋がった見えないパスを通じて、『お疲れ。よく頑張ったな』という呆れ半分の労いが、温かい波のように直接私の胸へと流れ込んできた。
言葉などなくても、相棒の言いたいことは痛いほどわかる。
私は「ハクゥ……」ともう一度情けない声を漏らし、愛らしいモフモフの神気にさらなる深呼吸をキメた。
冷え切っていた体が、ハクの体温と神気でゆっくりと解れていく。
あのお方の前では、なんとか『使える手駒』として振る舞おうと気を張っているつもりなのだが、結局のところ『聞いてよ姫ちゃん!』と実家の愚痴をこぼして甘えてしまうのだから世話はない。
五年前も今日も、沙羅姫は私のそんな不器用な強がりも弱さもすべてお見通しで、その上で強烈なエゴと慈愛で私を絡め捕ってくるのだ。
「……ん?」
ハクの首元に全力で顔を埋めていた私は、ふと、部屋の中が異様に静かなことに気がついて顔を上げた。
ここ一週間ほど、少しでも気を抜けばエアコンの送風口や換気扇の隙間から、実家からの『真っ白な召喚状』がパラパラと雪のように転送されてきていたのだが、今はぴたりと止んでいる。
(これは、姫ちゃんが何かうまいこと実家に連絡してくれたな……?)
そう思い、確認のために送風口の奥へ意識を広げた瞬間。
「……っ、ブフーッ!」
私はこらえきれずに盛大に噴き出してしまった。
沙羅姫は、単に『嫌がらせをやめろ』と口頭で連絡を入れたわけではなかったのだ。
鳴神家の術師たちが事務所のビル周囲に張っていたはずの金行の遠隔術式が、より上位の強大な『土行の結界』によって、根源から完膚なきまでにへし折られている。
さらには、これまで我が家をねちっこく見張っていた霊力の残滓までが一掃されていた。これは間違いなく、私がお茶会をしている数時間の間に土御門の部隊を動かし、今まで見逃してやっていた末端の術師たちが潜んでいた監視拠点を丸ごと『物理的に』制圧した痕跡だった。
(姫ちゃん……それ『陰陽術の攻防』じゃなくて、ただの『反社のカチコミ』だから!)
高度な呪術戦になると思って気を張っていた鳴神の術師たちが、いきなりドアを蹴破ってきた土御門の屈強な部隊に『物理』でボコボコにされる姿が脳裏に浮かぶ。
あれだけ執念深く封書を送って、陰湿に嫌がらせを続けていたというのに。
この短時間で、いとも簡単に、しかも一切の風情もない力業で拠点ごとすり潰されたのだ。
彼らの絶望と間抜けな顔を想像すると……。
「――いや、まじざまあ!」
声に出して叫んだ途端、下品な歓喜が腹の底から湧き上がり、痛快さで意地の悪い笑いがどうにも止まらなくなる。
私はハクを抱き抱えたままソファに仰け反り、「あっははっ、あはははは!」と自分の膝をバンバンと叩いて笑い転げた。
突然大ウケし始めた私に、腕の中のハクが不思議そうに『にゃ?』と首を傾げる。それでも、吊り上がった口角はどうしても下りてくれなかった。
散々笑った私は、ひどく晴れやかな気分で小さく息を吐き出す。
そしてハクの背中を撫でながら、別れ際に沙羅姫が投げてきた『もう一つの言葉』を静かに思い返していた。
* * *
『そういえば琥珀。帰る前に、貴女の耳に入れておきたい情報があるのだけれど』
ホテルのラウンジからの辞去の直前。
見送りに立った沙羅姫は、ふと思い出したかのような、けれど極めて計算されたトーンで私に告げた。
『最近、裏のルートで【天緋金】を使った呪具の流通量が増えているのを知っているかしら?』
『天緋金……?』
その単語に、私は思わず眉をひそめた。
天緋金。
それは、私が知る限り、緋月だけが生成できる極めて特殊で強靭な霊的金属だ。
八年前の暴走事件の際、彼が周囲を破壊した残骸が裏で流出しているのだと、私はずっと思っていた。
『ええ。でも最近、ただの残骸というだけでは説明がつかないほど流通量が増えているの。それに……天緋金を扱う術師が現れたという報告もあるわ』
「っ……!」
脳天を重いハンマーで殴り抜かれたような衝撃に、一瞬、視界がぐらりと揺れた。
『土御門の監査として、鳴神本家に立ち入り調査をかけることもできるわ。……でも、調べてみる価値はあると思わない?』
* * *
「……天緋金を扱う術師」
薄暗い自室で、私はそのキーワードをもう一度口の中で転がした。
天緋金は、あの子の命そのものだ。それが今になって大量に流通し、あろうことか『術師が扱っている』?
あの事件を経て、二人だけの秘密だったはずの緋月の固有術が、天緋金の生成であると公然に晒されてしまった。
何者かが、何か非道な実験を繰り返し、誰かに天緋金を移植したのだろうか。それとも――。
(まさか。あの子自身が、生きている……?)
万が一。本当に万が一、そんな奇跡のような可能性があるのだとしたら。
ギュッと、祈るように両手を握りしめる。
どちらにせよ、ここで立ち止まっている暇などない。
もしあの事件の黒幕が裏で絡んでいるなら、奴らを地獄に引きずり降ろす決定的な証拠を掴むチャンスだ。
今までは、身動きが取れなかった。
だが、もう幼い無力な私ではない。
沙羅姫がくれたこの『天緋金』の手がかりを足がかりに、徹底的に裏の尻尾を掴んでやればいい。
「……ハク」
私はソファからふっと息を吐き出しながら立ち上がると、床の上に放り投げてあった最後の一枚――本家からの『真っ白な召喚状』をひょいとつまみ上げた。
くしゃりと無造作に握り潰し、ゴミ箱へ放り投げる。
実家からの薄気味悪いお誘いに今すぐ乗る気はない。
まずは、この裏に隠された真実を暴くのが先だ。
先ほどまでの脱力感は綺麗に消え失せ、代わりに胸の奥底から、冷たく研ぎ澄まされた闘志が静かに沸き上がっていた。
相棒を振り返り、私は不敵に笑う。
「まずは情報屋のところへ行くよ。天緋金の情報を、根こそぎ引きずり出してやるんだ」
『んにゃ!』
相棒の頼もしい返事を背中に受け、私は緋月を救い出すための最初の一歩を踏み出すべく、夜の街へと繰り出す準備を始めた。
沙羅姫様は二十四歳。
琥珀より歳上のお姉様です。
ビジュアルイメージは、大好きなCLAMP様の作品『xxxHOLiC』の侑子さん。
香りのモデルは、サンタ・マリア・ノヴェッラの「オードパルファム クエルチア」です!
とても素敵な香りなので、気になる方はぜひお試しください(╹◡╹)




