File-39【潜入報告】船通山戦(7) ――因縁への宣戦布告
「音無家は、本当によい働きをしてくれた」
三日月のように吊り上がった唇から紡がれた声には、率直な敬意が含まれていた。
「私が与えるはずだった愛を君に与え、凍りついていたその心をゆっくりと溶かしていった。……特に緋月くんは素晴らしい。彼の存在なくして、琥珀の心の安定は成し得なかったろう」
その落ち着き払った語り口は、まるで最高傑作の悲劇を特等席で鑑賞し終えた、観客のようだ。
「緋月くんの、君への愛は本物だ」
大叔父は感嘆の溜息を漏らし、芝居の余韻を噛み締めるように目を細める。
「幼くしてあの情念――いや、幼いが故と言った方がよいだろうか……。ただひたすらに琥珀を慕う様は、観察していて心地がいいほどだったよ。それに加えて、あの強大な呪術的素養。彼を見出した兄上に感謝したほどだ」
――心地いい……?
緋月の純粋な想いすら、この狂人にとっては娯楽の一つでしかないというのか。
「ならば何故、あのような酷い仕打ちを……?」
沸騰しそうな怒りを、私は冷たい理性で強制的に押さえ込む。
「白虎を宿す、金行随一の宝。……そんな君が、いつまでも生ぬるい家族ごっこに興じ続けるなど、許されるとでも思ったのかい?」
「……は?」
何を言っているのだろうか、この狂った老人は。
「君は孤高の存在でなければならない。あのままぬるま湯に浸かっていれば、いずれ神の器から、凡庸な情に絆された『ただの人間』へと成り下がってしまう。だから私は、ある舞台を用意することにしたんだ」
大叔父は、手品師が種明かしをするように大袈裟に両手を広げた。
「簡単なことだったよ。事件の数週間前、私は世話役であった音無の夫婦に『記録院から一般図書院へ、若い術師向けの資料を移管する作業』を任せた。……その資料の束の中に、『双星比和』の術式が書かれた本を紛れ込ませておいてね。もちろん、彼らの罪の証となる『禁呪』の項も入れてだ」
私は、掌に爪が食い込むほどの怒りを、鉄の殻に閉じ込めて耐えた。
この男は、音無夫婦が禁呪を盗み出したという『証拠』すらも、彼ら自身に運ばせていたのだ。
「彼らは真面目な人たちだった。私の指示通り、何が入っているかも知らずに、禁忌の術式を自らの手で図書院へと運び込んだ。……君のために強くなりたいと願う、可愛い息子の手の届く場所へね」
大叔父は、見事に仕上がった悲劇の結末を反芻するように笑みを深めた。
「あとは緋月くん自ら本を見つけ、勝手に地獄の扉を開いてくれた。……そして、暴走した息子を止めるため、音無の夫婦は自らの命を投げ出した」
「……貴方は、現場にいち早く駆けつけ、蔵に残された陣を対象の力を奪う禁呪に書き換えた」
私は感情を殺した声で、淡々と事実を突きつける。
「ああ、その通りだ。死人に口なしとはよく言ったものだよ」
大叔父の穏やかな微笑みは、微塵も揺るがない。
「調査が入っても、何も問題はなかった。彼ら夫婦が『資料移管の権限を悪用し、禁呪を盗み出した』という完璧なログが残っていたのだからね。……白虎憑きの絶大な力を息子に奪わせようとした分家の裏切り者が、術に失敗して自滅した。誰もがその美しい筋書きを信じたよ。……いや、兄上だけが疑っていたかな。まあ、物的証拠が揃っていたからね。兄上の個人的な疑いなど、なんの支障も来さない」
「ふざけるな……ッ!」
限界だった。
私は重い椅子をガタッと蹴るようにして立ち上がった。
「あの日、緋月の両親は、自らの命だけではなく、自分たちの子供を捨ててまで私を守ろうとした! それなのにお前は……彼らの『名誉』まで奪い、一族の裏切り者として泥を被せた!!」
「私は舞台を用意したに過ぎない。選んだのは、君たちだ」
責め立てる私を、癇癪を起こした子供を諭すような憐みを込めて見上げ、大叔父は淡々と続ける。
「次こそ私が君を助け、信頼を勝ち取るという筋書きだったのだが――緋月くんが自我を取り戻してしまうとは……ここだけは誤算……いや、嬉しい誤算だったかな。琥珀の代わりに、私は緋月くんを手に入れることができたのだから」
肚の底から這い上がってくる凄まじい殺意。
もはや隠すこともなく、私は氷刃のようなそれを目の前の男へ突きつけた。
「そんな顔しないでくれ。あの日、自死を選んだ緋月くんの身体の損傷はあまりにも酷いものだった。本来なら死んでいるはずだった。その状態から私自身がここまで治療してあげたのだよ。それに――」
言葉を区切り、大叔父は至高の芸術品を鑑賞するように目を細めた。
私を真の孤独に突き落とすためならどんな犠牲も厭わないという、執念深くおぞましい狂愛。
残酷な真実を突きつける瞬間を心底楽しむような、愉悦に満ちた視線が私を射抜く。
「あの瞬間、安らかな死を迎えるはずだった彼を現世に引き留めたのは……琥珀、君自身だ」
「……何を言って……?」
「まだ気づかないのかい? まあ、当時は無意識だったのだろう。双星として緋月くんと繋がった君は、彼の霊核に守護結界を張った。天緋金と混じり合った琥珀と白虎様の清らかな霊力が、緋月くんの命の核たる部分を守った。故に、彼は死ぬことすらできない体になったんだ」
――あ。
一瞬、視界が揺らいだ。
あの日、私を守りたいと泣いた彼を、今度こそ私が守るのだと。
あの惨劇の最中、私は無意識のうちに緋月の命を繋ぎ止めてしまっていたというのか。
彼に、死すら許されない永遠の苦痛を与えるために?
「全て……私の、せい……?」
心臓を冷たい氷の刃で深々と抉られたような、深い絶望。
足元の床が抜け落ち、真っ暗な奈落へと突き落とされたような感覚に、全身の血の気が引いていく。
囚われている緋月を最初に見て、ハクが何かに気付いたのは私が張ってしまった結界のことだったのだ。
「ふふっ、だから言ったろう。私は舞台を用意しただけだと」
瞳から生気が消えていく私を見て、大叔父は満面の笑みで言葉を継いだ。
「そして、あの天緋金……あれを利用しないのは金行の術師としての名折れだ。彼の体の負担にならないよう、『幻惑』、そして『忘却』の術をかけ、少しずつ天緋金を抽出した」
「……体の負担?」
大叔父の『緋月を搾取することが、さも当然』という態度が。
緋月の実態とあまりにもかけ離れたその言葉が。
自己嫌悪に沈みかけた私の思考を、一瞬で凍りつかせた。
私はゆっくりと顔を上げ、ひどく冷ややかな声で、大叔父の言葉を遮った。
「緋月は……お前のせいで死の苦痛を味わっていたんだぞ……」
「それは斑目くんが、勝手に緋月くんの霊力を内に溜め込んだからだ。『身代わりの呪具』を使用できるようにするためだけに『偽胎の呪印』を刻んだというのに……。生産に回されるはずの霊力が、彼女の私欲を満たすために使われた。彼女が緋月くんを弄ばなければ、彼はあれほどの苦痛を味わうこともなかった」
「それを見逃していたのも、お前だろう……」
「私が見るのは、結果と数字だけだからね」
大叔父は、まるで事務処理のミスを指摘されたかのように、冷淡に肩をすくめた。
「現場の問題は、現場側に責任がある」
プツン、と。
鉄の意思で無理やり縛り付けていた理性の糸が、あっけなく千切れる音がした。
(……ごめん、ハク。もう『時間稼ぎ』はできない)
《……無茶はするなよ。と言って聞くタマではないか……》
(ハクは緋月を守って。信じてるから)
スゥっと、息を整え、眼前の男を見据える。
その瞳にあるのは、研ぎ澄まされた絶対零度の殺意。
「……お前の『答え合わせ』とやらに付き合うのは、もう沢山だ」
右手に濃密な霊力を集中させる。
バチバチと、銀色の火花を散らしながら顕現するのは、この外道に引導を渡すための私の刃。
しかし、私が明確な殺意を剥き出しにしても、大叔父の余裕は微塵も揺らがない。
「おや、もう緋月くんの容態は良いのかな?」
涼しい顔で、老人は微笑む。
私がこの男の狂った御託に付き合っていたのが、ハクの繭の中で緋月の霊力を安定させるための『時間稼ぎ』であることなど、とうに見透かされていたのだ。
「君の焦る気持ちはわかる。だが、一番大切な話はここからだ」
「これ以上、貴様と語らうことなどない」
「今までの話は過去の話。次は、未来の話だよ」
大叔父の視線が、私の首元へと滑り落ちた。
そこにある黄玉の守護具――土行の力を宿したチョーカーを、ひどく冷ややかに見つめる。
「君は土御門の支援を受けてここにいるのだろう? つまり、この生産拠点も潮時だ。……長いこと苦労して作り上げた、思い入れのある場所だったのだがね」
感慨深げに、大叔父は無機質な工場を見回した。
「私ももう、この地にはいられない。そこでだ。共に行こうではないか、琥珀」
「…………は?」
私から家族を奪い、緋月の両親を死に追いやり、緋月を絶望の淵で搾取し続けてきた諸悪の根源でありながら、この男は一体何を狂ったことをぬかしている?
「緋月くんは君に返そう。未来永劫、離れることなく共にいられることを約束する。ただし、その身に宿る白虎の力は、私のために使うことが条件だ。悪い話ではないだろう」
大叔父は陶酔したように両手を広げ、薄暗い天井を仰ぎ見た。
「我ら金行こそが、五行において最も優れ、最も美しく、最も尊い存在なのだよ。あらゆるものを鋭く断ち切る絶対の武力であり、決して変質することのない不変の輝き。本来、禍憑きを彷彿とさせる泥に塗れた土の一族が我々の上に立つことなどあり得ないのだ。……我らこそがこの腐敗した呪術界の頂点に君臨し、すべてを統治するに相応しい。さあ、琥珀。私と共に、五行の頂点に立とう」
熱を帯びた大叔父の瞳には、己の正義に対する一点の曇りもなかった。
他者の血肉を啜り、子供の人生を踏みにじってでも至高に至ろうとする、純粋なる傲慢。
もはや怒りも湧いてこない。
こんな狂った妄想の踏み台にされるために、緋月は、私たちは、地獄を這っていたというのか。
「……そんなこと、どうでもいい」
私は右手に握った刃の切先を、真っ直ぐに大叔父へと突きつけた。
「私は、緋月とハクさえいれば何もいらない。それに、私はもう、ある人に誓いを立ててるんだ。――私の力は、五行の調定と、この世の穢れを祓うために振るうと」
「私の大切な姫が、薄汚い土泥の思想に洗脳されてしまったか……嘆かわしい」
大叔父は心底哀れなものを見るように目を伏せると、革靴の爪先で、足元の金属パネルをコツンと静かに叩いた。
プシュッ、と圧縮空気が抜ける無機質な音と共に、大叔父の傍らの床が幾何学的なパズルのようにスライドして開く。
そこから滑らかにせり上がってきたのは、一本の長柄の矛だった。
鍔や装飾といった無駄は一切なく、三本の極細の刃が生命の螺旋のように根本まで深く絡み合い、ひとつの滑らかな流線型を成している。
切先が不吉なほど妖しく、そして美しく赤い光を放つ。
緋月の身体から抽出され続けた『天緋金』の結晶にして、すべての量産型呪槍の源流たる最凶の兵器。
「ならば、証明するしかない。君と白虎の力、私の人生を賭けた信念……どちらがこの世を制するに相応しいかを」
大叔父が矛を構えると、赤い光がさらに禍々しく輝きを増した。
「すべてを混沌へと還す『天逆鉾・緋金』――さあ、かかってきなさい」
矛を構えた大叔父が、三日月の笑みを深める。
私は、これまで血反吐を吐いて叩き上げてきた業と、研ぎ澄ませた殺意のすべてをこの刃に込め、眼前の男を睨み据えた。
「上等だ。クソジジイ」
『天逆鉾・緋金』の形状は、三叉のロンギヌスの槍をイメージしていただくと、想像しやすいかと思います。




