File-36【潜入報告】船通山戦(4) ――その呪印を刻んだ者
背筋が粟立つような悪寒で乱れた感情を落ち着かせるように、深呼吸を数回繰り返す。
「これは返してもらう」
自分の髪が編まれた呪具など今すぐ塵に変えたいが、これは大きな証拠品となる。
「私の、私の櫛……!! ああっ……返して……」
床を這いずり、亡者のように呻きながら手を伸ばしてくる斑目を完全に無視し、私は櫛簪を上着のポケットに押し込んだ。
続いて、周囲の状況へと意識を広げる。
先ほどから、工場内にはラインの異常を知らせるけたたましい警告音が鳴り響き続けている。非常用の赤色灯がぐるぐると回り、薄暗い空間を不気味に照らし出していた。
緋月の霊力が暴走した際の異常検知に加え、彼を拘束していた無数のチューブをすべて引き抜いたことで、製造ラインは完全にストップしている。
可能かはさておき、斑目に警報を止めさせたところで今更遅い。
今すぐ組織側の術師がここへ大量に雪崩れ込んで来てもおかしくない。
これ以上の工場の制圧は諦め、このまま速やかに撤退したいところだが――。
(ハク、緋月の様子は?)
《落ち着いてきてはいるが、まだ移動はさせない方がいい》
(了解。進展があったら教えて)
どういう仕組みか、この生産ライン内は水神の強大な力が完全に制御されている。
だが、ここから一歩でも外へ出れば、荒れ狂う水神の気があふれかえっている状態だ。
緋月には万霊の秘薬を投与したとはいえ、限界を超えて霊力が暴走し、霊脈も一度ボロボロになっている。その上、水神除けの守護具も亀裂が入ってしまっている有様だ。
今の不安定な緋月がその波に当てられれば、致命傷になりかねない。
ハクの繭の中で、霊力が完全に安定するのをここで待つしかない。
身動きが取れない以上、今やれることと言えば、転がっているこの女の底を暴くことくらいか。
私はため息を吐き、再び斑目へと向き直った。
斑目がいつからこの非道な組織に組み込まれたのかは不明だが、少なくとも八年前までは、鳴神家の使用人であること以外は一般人に近い生活を送っていただろう。
仮にそこから八年間、血の滲むような修練を重ねたとしても、気配すら完璧に模倣する『身代わりの呪具』を作れるような域には到底至れない。
裏には確実に、高位の術師がいる。
そして、本来『空の器』であるはずの斑目が、天緋金を蓄えていたという丹田の謎も、行き着く先は同じだ。
自分の目で見て確認するしかない。
「次は何するっていうのよ……! もう、いいじゃない……!」
無言で近づく私に怯え、斑目が身を捩って逃げようとする。
「【 動くな 】」
再び放たれた呪言に、斑目の体がピタリと床に縫い止められた。
私は右手に錬成したナイフを振るい、這いつくばる斑目の腹部――泥に塗れた真紅のドレスを容赦なく切り裂いた。
露わになった彼女の腹部を見た瞬間。
「お前……っ、これ……!」
私は思わず絶句し、ナイフを持つ手を止めた。
斑目の下腹部、丹田のあたりに深く刻み込まれていたのは、ひどくまがまがしい紋様。
他者の霊力を取り込み、己の腹に仮初めの丹田を形成する禁忌の術、『偽胎の呪印』で間違いない。
だが、異常なのはその中身だ。
呪印に溜め込まれていたのは、緋月から搾取したはずの天緋金の霊力などではなかった。
ドス黒く、ヘドロのように濁った『瘴気』。
呪印の周囲の皮膚はすでに瘴気に侵食され、まるで壊死したように変色し始めている。
「どれだけの悪意を、内に溜め込んだんだ……」
あまりのおぞましさに、私の背筋を悪寒が駆け抜けた。
私の呟きに釣られ、硬直が解けた斑目も恐る恐る己の腹部へと視線を落とす。
「い、いや……何よこれ……いやあああああぁぁぁぁぁぁっ!!!」
自分の体が腐り落ちていくような惨状に、斑目が絶叫する。
そして、その悲鳴に呼応するかのように、呪印から溢れ出す瘴気が一気に増殖し始めたのだ。
焦りが全身を駆け巡る。
「だめだ! 【 落ち着け 】!」
「ああああああ!!! 私の体がああああ!!!」
呪言で無理やり精神を鎮静化させようとしても、極度のパニックと自身の絶叫に掻き消され、斑目の耳には一切届かない。
ジュル、グチュッ、と嫌な音が鳴る。
どす黒い瘴気が斑目の腹部の肉を食い破り、まるで泥のようにドロドロと溶かし始めた。
無機質だった工場内に、鼻をつくような酷い腐臭が充満していく。
人間の肉体が限界を迎え、異形へと堕ちる凶兆。
(禁呪で作った丹田を起点として瘴気が広がっている……今すぐこの呪印を解呪しないと……こいつは、禍憑きになる……!)
元の体が霊的な干渉を受け付けない特異体質なのだから、呪印さえ解除してしまえばこの現象は止まるはず。
だが、私は『偽胎の呪印』という呪いを知識として知っていても、こんな悍ましい禁呪に手を出したことなど一度もない。
私にこれを解呪することは不可能だ。
これを解呪できるのは、術を施した術者本人だけ。
「この櫛と、お前にその呪印を与えたのは誰だ!!」
私はドロドロに溶けゆく斑目の胸ぐらを掴み上げて怒鳴った。
「そんな……私の体が……いや……溶ける……いやぁっ……」
私の声は斑目に届かない。
己の体が崩壊していく恐怖と凄まじい痛みに、完全に発狂している。
「クソッ……!」
パァンッ! と、乾いた音が鳴った。
私は斑目の頬を力任せに平手打ちし、無理やり意識をこちらへ向けさせる。
「この櫛と、この呪印! 誰が刻んだ!!!!」
切羽詰まった私の怒声が空気を震わせた。
その直後。
ピタリと。
けたたましく鳴り響いていた工場の警報音が止んだ。
(ヤツが……来た……)
感じたことのある、この場の全てを制圧する圧倒的な「気」。
全身の産毛が逆立ち、本能が警鐘を鳴らす。
嫌な汗が背筋を伝った。
背後から。
「――私だよ」
狂騒と腐臭に包まれたこの空間には到底似つかわしくない、ひどく穏やかで、聞き覚えのある男の声が響いた。




