File-35【潜入報告】船通山戦(3) ――八年の穿痕と、悍ましき成り代わり
緋月の体内で暴れていた『破脈の硝液』。
その禍々しい気をすべて吸い出し、床へと吐き捨てた直後、私はたまらずその場に膝をついた。
《……大丈夫か》
ハクの低く気遣うような声に、私は荒い息を吐きながら頷いた。
「……大丈夫。呪符一枚……いや、二枚で足りる」
痛む胸元を押さえ、ポケットから『霊脈回復の呪符』を取り出し、自身に使った。
清浄な霊力が沁み渡り、内から肉を裂くような霊脈の痛みが和らいでいく。
これから、己の霊脈を削らざるを得ないあの『呪槍』との対峙が控えているかもしれないというのに、とんだ痛手だ。
すべては壁際で這いつくばるあの女のせいだが――先ほどの蹴りが効いているのか、動く気配はない。
ひとまず、奴は後回しだ。
立ち上がり、私は再び緋月へと向き直る。
まずは、彼の全身から天緋金を吸い上げている無数のチューブだ。
これ以上少しでも彼を傷つけないよう、一本一本、慎重に引き抜いていく。
穿たれた肉から血と天緋金の精製液が混ざり合って零れ落ちるたび、目の奥が熱く滲む。
そして、最後に残った悍ましい拘束。
緋月の手足を鋼鉄の枠に縫い止めている、一際深く太い呪釘に手をかける。
「……ねえ、これって、『幻惑』と『忘却』の呪釘で間違いない?」
《ああ。……天緋金という霊力以外を空にした、『器』とするためだろう》
「そう……」
ハクの無慈悲な推測は、間違いなく事実だろう。
これほどの非情な仕打ち。
あまりの怒りに、呪釘に触れる指が白く変色するほど、強くそれを握り込んだ。
しかし、このまま物理的に引き抜けば、癒着した肉ごと彼を裂いてしまう。
私は指先からそっと霊力を流し込み、呪釘そのものを砂のように崩壊させた。
同時に、彼を縛る重厚な鎖もすべて塵と化して散らす。
「――っ!」
拘束具が消え去った後の緋月の手足を見て、私の顔が悲痛に歪んだ。
長年の拘束を物語るように、呪釘が貫いていた傷口は完全に癒着し、向こう側が見えるほどぽっかりとした不気味な空洞を残していた。
金属の毒素と呪いに侵された周囲の皮膚は、壊死したようにどす黒く変色している。
その痛々しい肉のトンネルから、血と体液、緋金の精製液が混ざり合い、ゆっくりと滲み出していた。
生きた人間を、ただ力を搾り取るためだけの機械部品のように繋ぎ止めていた痕跡。
これが、彼がたった一人で耐え続けてきた地獄の証だった。
体を支えていた拘束が取り除かれた緋月の体が、糸が切れたように崩れ落ちる。
咄嗟に抱き止めるも、その体は羽のように軽いことに気付かされた。
成長し、私よりもずっと大きくなっているはずの背丈。
すっかり骨と皮ばかりになってしまった薄い体躯から、彼の命がどれほど削り取られてきたかが伝わってくる。
あまりの惨状に、胸の奥を刃で抉り取られたような痛みが走る。
呼吸すら忘れるほどの悲痛さに、私はただ緋月を抱き締めることしかできなかった。
「っ……」
私はぎゅっと目を瞑り、込み上げてくるものを必死に押さえ込む。
(早く治療しないと……)
彼を冷たい金属の床にそっと横たえ、震える指でポケットから『万霊の秘薬』を取り出す。
沙羅姫から託された、死者さえも蘇らせると言われる至高の霊薬だ。
『破脈の硝液』の呪いはすでに祓い終えている。
今なら、薬同士が反発し合うことはない。
緋月の頭を膝に抱き上げ、小瓶の口を白茶けた唇に添えて、ゆっくりと液体を流し込む。
黄金の雫が喉を落ちていくのを見届けると、すぐに目に見える変化が現れた。
ぽっかりと空洞になっていた呪釘の傷跡が、内側から肉が編み込まれるように再生し、塞がっていく。
『破脈の硝液』による霊脈の致命的な損傷も、柔らかな光を帯びて癒えていくのが手を通して伝わってきた。
(……よかった)
少しだけ息をつく。
だが、完全に安堵するのはまだ早い。
霊脈そのものが治癒しても、一度限界を超えて引きずり出された霊力は、いまだ彼の体内で荒波のように暴走し続けている。
このままでは、彼の器がもたない。
私は焦る気持ちを抑え、ポケットの奥から『黄玉の首飾り』を取り出した。
沙羅姫からもらった黄玉の守護具のうちの最後の一つだ。
そっと彼の首元に回し、留め具をかける。
『土生金』の作用で、彼の中で荒れ狂う刃のような金の霊力を、母なる土の柔らかな気が安定させてくれるはずだ。
祈るような気持ちで見つめていると、首飾りが淡い黄色の光を放ち、緋月の顔に浮かんでいた苦悶の色がわずかに和らいだ。
だが――それでも足りない。
『破脈の硝液』によって無理やり引きずり出されていた霊力の渦はあまりにも巨大で、深すぎた。
黄玉の力をもってしても完全には相殺しきれず、首飾りに亀裂が入り始める。
このままでは、守護具ごと砕け散ってしまう。
「……だめだ。霊脈が治癒しても、霊力が鎮まらない。……ハク、お願いできる?」
振り返り、己の相棒たる白虎に声をかける。
《わかった》
ハクの神気には、私の感情の乱れや霊脈の波を穏やかに落ち着かせる力がある。
私に効くのなら、私と霊脈が繋がっている双星の緋月にとっても、同じように作用するはずだ。
ハクの体が淡い光に包まれ、その美しい白い毛並みが無数の銀の粒子となって宙に舞い上がった。
きらきらと降り注ぐ星屑のような粒子は、意識を失った緋月の体を優しく包み込み、やがて彼をすっぽりと覆う、宙に浮く光の繭を形成した。
緋月はハクに任せた。
今の彼にとって、これ以上の安全はない。
何か問題があれば、ハクから念話が届くだろう。
大きく息を吸い込み、私はゆっくりと立ち上がった。
数メートル先の分厚い合金の壁際。
私の蹴りをまともに食らい、未だ這いつくばるしかない斑目の姿がそこにあった。
私の中で渦巻いていた悲哀は、いつしか底冷えするような静かな怒りへと変わっている。
口の中に残る血の鉄錆びた味を飲み込み、私は冷たい床を踏みしめて歩き出す。
次は、斑目の番だ。
乾いた靴音が響くたび、這いつくばっていた斑目がビクッと肩を跳ねさせた。
数歩の距離まで近づき、視線を下ろす。
私と目が合った瞬間、彼女の顔にありありとした恐怖が浮かび上がった。
「ひっ……来るな……! 来ないで……!」
「そんなに怯えることはないだろう? お前が緋月に与え続けてきた地獄に比べれば、その痛みなど、かすり傷にも満たない」
足元に転がる斑目を見下ろすと、闇オークションで見せたような磨き抜かれた美しさは、もはや完全に消え失せていた。
全身を飾っていたはずの豪奢な宝飾品は一つ残らず剥がれ落ち、艶やかだった赤茶色の髪は、まるで赤錆のようにパサパサに荒れ果てている。
口元には吐血と胃液が混ざった無惨な跡がこびりつき、念入りに施されていたはずの化粧も涙と脂でドロドロに崩壊していた。
かつては最高級の絹だったであろう真紅のドレスも、今はただの泥と血に塗れたボロ布に過ぎない。
「見る影もないな。白虎の仮面の、斑目様?」
あえてその名を口にすると、斑目の顔が恐怖から一転、どす黒い憎悪に歪んだ。
「なっ……! やはり、アンタだったのね……!! 私のオークションを台無しにしたのは……!!! アンタのせいで、私は……!!!」
口座を完全に凍結されたのも。
すべてのカードが決済不能になったのも。
全部、全部、こいつのせいだ――。
血走った彼女の眼が、そう雄弁に語っていた。
「さあ? 私は何もしてない。……私よりずっと恐ろしい人の『逆鱗』にでも触れたんじゃない?」
私は冷ややかに首を傾げた。
彼女は未だに、目の前にいる私が、オークションで接触してきた『水行の画商』であることすら気付いていないらしい。
ふと、足元の硬いものを踏んだ感触があった。
視線を落とすと、そこにあったのは、精巧な花飾りがあしらわれた櫛簪だった。
「何、これ」
私が無造作にそれを拾い上げた瞬間、斑目の顔色が変わった。半狂乱になって身をよじる。
「やめろ!!! それに触るな!!!! それは私の物だ!!!! 返せ!!!!」
喚き散らす斑目を一瞥し、私は手元の櫛を観察した。
光に透かして見ると、装飾の隙間に、銀色の細い糸のようなものが何本も編み込まれ、怪しく光っているのがわかった。
(これは……身代わりの呪具?)
成り代わりたい対象に縁のある物品と、その生体情報を編み込むことで、姿形から気配に至るまでそっくりに具現化できるという禁忌の代物。
もしや――。
ある悍ましい推測が脳裏を過り、私の中で静かに燃えていた怒りの温度が、さらに一段階下がった。
「これ、何のために持ってたの?」
「教えるわけないでしょう!! いいからそれを返しなさ――」
「【 答えろ 】」
言葉に、濃密な怒気と呪いを乗せて放つ。
声という音波で脳を直接揺らし、言動を強制的に縛る『呪言』の術。
「そ、それは、あなに成り代わるために使って――っ!」
斑目は慌てて両手で口を覆い、自らの意思に反して言葉を紡ごうとする唇を必死に押さえ込んだ。
私は右手に霊力を束ね、切っ先の鋭い短剣を錬成する。
そして無造作に腕を振り抜き――這いつくばる斑目の髪を数本断ち切りながら、分厚い合金の壁へと力任せに突き刺した。
ガァンッ! と重苦しい金属音が響き、彼女の頬を掠めるほどのゼロ距離で火花が散る。
「【 答えろ 】。三度目はないぞ」
呪言による強制力と、物理的な死の恐怖。
二つの圧力に耐えきれず、斑目はひっ、と短い悲鳴を上げ、ついに堰を切ったように叫んだ。
「あ、あなたに成り代わって、緋月を油断させるためよ! あのガキ、あなたの姿形を使えば、簡単に心を許して霊力を解放するのよ! そのおかげで、私も丹田にたっぷり天緋金を蓄えられたの! 緋月は、私のものよ!!」
這いつくばったまま、斑目が血走った眼で私を睨みつける。
己の姿を利用して緋月を騙し、最も無防備な状態にして搾取していた。
その悍ましい手口に、腹の中に黒い怒りがトグロを巻く。
それに――。
(緋月は、私を頼りにこの八年耐えてきたのか……)
その思いに気がつくこともなく、自分は沙羅姫の庇護下で安全な暮らしをしていた。
自身の情けなさに反吐が出る。
一方で、私の思考の裏側には冷静な疑問が渦巻いていた。
天緋金は、本来強大な霊脈を持つ者でなければ扱えない。しかも斑目は、霊的な力に干渉できない『空の器』のはずだ。
どうやって緋月から搾取した力を、己の丹田に留めているというのか。
不可解な点は多い。
だが、今は一つ一つ解決していくしかない。
「これは、どうやって手に入れた?」
私は疑問を一旦切り離し、手元の櫛簪を突きつけた。
「あ、あなたから盗んでやったのよ!! 大事そうにもしてなかったんだから、別にそのくらいいいでしょう!!」
開き直ったように喚く斑目の言葉に、私は思考を巡らせる。
本邸の最奥。
私と緋月が暮らしていた、限られた者しか入れないはずの屋敷。
つまり、こいつは並の術士では侵入すらできないあの屋敷に「斑目家」の性質を利用して頻繁に出入りしていたのだ。あろうことか、私の私室にまで。
じゃあ、この櫛の装飾の隙間にびっしりと編み込まれた、銀色の糸のようなものの正体は――。
「……私の、髪……」
その言葉を口にした瞬間、斑目の肩がビクッと跳ねた。
「他人の物を盗むだけじゃなく……身代わりの呪具を編めるほどの量の髪を、あの屋敷でコソコソと集めていたと……?」
斑目は血の滲んだ唇を強く噛み締め、スッと私から目を逸らした。
何も言わない。その沈黙は、雄弁な肯定だった。
床に落ちているものを拾い集めたのか。
それとも、散髪の際に切られた髪を廃却場から持ち去ったのか。
どちらにせよ、私の姿を完璧に模倣できるほどの気配と呪いを定着させるために、どれほどの量の髪を執拗にかき集めたのか想像もつかない。
私の中で渦巻いていた底冷えするような怒りが、別の感情に塗り替えられた。
常軌を逸した執念に対する、ひたすらの生理的嫌悪。
「……お前……キモすぎ……」
私が地を這う虫ケラでも見下ろすような目で一瞥すると、斑目は屈辱に顔を歪ませた。




