File-34【潜入報告】船通山戦(2) ――禁忌の劇薬と、血染めの口づけ
【時刻:二時二七分】
【現在地:船通山・亀石谷――林道沿い】
焼け焦げたような異臭を放つ軽自動車が、茂みに無理やり突っ込んで停まった。
急ブレーキをかけたタイヤからは白煙が上がり、異常な熱を持ったボンネットの隙間からはシューシューと白い蒸気が吹き出している。
オーバーヒートした車体を冷やそうと、冷却ファンが狂ったように唸り声を上げ続けていた。
運転席から転がり出た斑目は、高いピンヒールを履いているにもかかわらず、そのまま鬱蒼とした原野のヤブの中へと突き進んだ。
本来であれば、切り拓かれた伐採地跡から工場内へスマートに乗り入れるはずだった。
だが、今の彼女にそんな悠長なルートを通っている時間はない。
「クソッ……こんな道、普段なら絶対に通らないのに……!」
足場の悪い泥土に、鋭い踵が深く沈み込むが、構わず力任せに引き抜いて進む。
豪奢な真紅のドレスが泥で汚れ、地面に落ちた枝に引っかかって無惨に裂けた。
だが、斑目は舌打ちしながらそれを強引に引きちぎり、生産ラインの最深部へと直結する隠し通路へ向かって這うように進んだ。
やがて、草と土で精巧に偽装された地面の一角に辿り着く。
磨き上げた爪が血や泥で汚れていく様に、斑目は忌々しげに舌打ちした。
「もう散々よ……!!」
荒々しく土を掘り返し、現れたセキュリティパネルに血走った目を向け、網膜認証をパスした。
重い音と共に開いたハッチから金属製のハシゴを滑り降り、すぐさま自分専用の管理室へと飛び込む。
隠し金庫の中から二つの小箱を掴み取った。
一つは『身代わりの櫛』。
もう一つは――霊脈を強制的にこじ開ける禁忌の劇薬、『破脈の硝液』。
斑目は櫛をドレスの胸元にねじ込んだ。
櫛は後から使えばいい。
今はとにかく、この薬を緋月に飲ませるのが先だ。
薬の小瓶を握りしめ、斑目は管理室を飛び出し、広大な地下空間――呪具の自動鋳造ラインへと駆け出した。
工場の中央。
無骨な鋼鉄の枠に、いつもどおり緋月は磔にされていた。
オークションに向けて限界まで天緋金を抽出したが、斑目が落札した『万霊の秘薬』を投与されているため、肉体は崩壊を免れ、静かな幻惑と忘却の中で安定しているように見える。
「……さあ、飲みなさい」
斑目は息を切らしながら歩み寄り、小瓶の蓋を弾き飛ばした。
「……っ」
本能的なものか。
薬から立ち昇る危険な気に、緋月は無意識のうちに顔を背けようとする。
「早く飲みなさいよ!!」
斑目は緋月の顎を強引に掴み、無理やり口の中へと黄金色の液体を流し込んだ。
「全部飲みなさい!! 一滴残らず!! 全てよ!!!」
むせることも許さず、顎を締め上げて最後の一滴まで喉の奥へと落とし込む。
直後――緋月の体内の霊脈が、狂乱したように暴れ出した。
強制的にこじ開けられた霊脈を、鋭いガラス片が内側からズタズタに切り裂く。
幻惑と忘却の呪釘に封じられていた緋月の意識が、『暴力的な現実』へと無理やり引きずり出された。
全身を駆け巡る、身を引き裂かれるような激痛。
体中の血管という血管が、内側から膨張するかのように脈打つ。
行き場を失った霊力が奔流となり、緋月の全身から爆発的に噴き出した。
「……っ、あ゛……ッ、ア゛ァ゛ァ゛ア゛ア゛ァ゛ァ゛ッッ!!!」
喉が裂けんばかりの絶叫が、広大な地下空間に反響した。
重厚な拘束具が軋みを上げ、斜十字の鉄枠の上で、緋月の身体が激しく跳ねる。
強制的に霊脈がこじ開けられたことで、彼に突き刺さる無数のチューブから暴力的な勢いで『天緋金』が漏れ出し、鋳造ラインのパイプが異様な膨張音を立てた。
機械群が異常を検知し、けたたましい警告音を鳴らし始める。
「何よ、大袈裟ね」
斑目は耳障りだと言わんばかりに顔をしかめた。
だが直後、ふと気づく。
(……緋月はここで死ぬ。なら、天緋金を溜め込むチャンスは今しかない)
斑目は下劣な舌舐めずりをすると、痛みにもがく緋月を背後からはがいじめにし、その無防備なうなじへと自らの唇を近づけようとした。
その時だった。
――閃刃。
工場の警告音すら突き破るような強烈な金属音と共に、区画を隔てていた分厚い鉄扉が、斜めにズレて崩れ落ちた。
ゴアァァァンッ……!!
もうもうと舞い上がる砂埃。
「ひづ……き……!!??」
その向こうに立った琥珀は、目の前に広がる異様な光景に、全身の血が急速に凍りつくのを感じた。
青白い呪陣が明滅し、ラインの上では猛烈な勢いで鋳造が始まっている。
床を這い回る太い銀のパイプがすべて集束する、まさにこの工場の『中心』。
そこに鎮座する無骨な鋼鉄の枠に、緋月が磔にされていた。
大切な家族が、磔にされ、更には苦しみに体をのけ反らせている。
琥珀は絶句し――次いで、背後から彼を押さえつける斑目を捉えた。
数秒の空白。
やがて、琥珀の口から紡がれたのは、怒声ではなかった。
「お前……緋月に何をした……?」
完全に瞳孔が開き、首を傾げて問う。
絶対零度を下回るような、一切の感情を排した冷徹な殺気。
《……殺すなよ》
(わかってる)
琥珀が低く腰を沈めた瞬間、彼女の足元の金属床が、耳障りな共鳴音を上げて激しく振動し始めた。
『金』は音を司る。
自身の体を極限まで共振させることで、肉体を弾丸のように音波に乗せる禁じ手。
――金行秘術『鳴動縮地』。
パァンッ!! という、乾いた破裂音。
音速を超えて撃ち出された琥珀の姿は、斑目の網膜にはまったく映らなかった。
「え――」
斑目が間の抜けた声を漏らした時にはすでに、三十メートル近い距離をゼロで結んだ琥珀の右足が、その腹部に深々と突き刺さっていた。
「ガ、ぁ……ッ!?」
防御はおろか、悲鳴を上げる間すらない。
斑目の身体はボールのように吹き飛び、背後の分厚い合金の壁に激突した。
ゴッ、と鈍い音が響き、硬質な金属パネルが放射状にひしげる。
肺の空気をすべて吐き出し、斑目は血混じりの胃液を撒き散らして床に崩れ落ちた。
全身の骨が軋み、ピクピクと痙攣したまま、立ち上がるどころか声を発することすらできない。
音速移動の強烈な反動で、琥珀の白い肌にも毛細血管が弾けた痛々しい血が滲んでいた。
「死なないように手加減してやった。感謝しろ」
冷たい双眸で琥珀は吐き捨てると、すぐさま緋月の元へと駆け寄った。
「緋月……ッ!」
琥珀は両手で緋月の頬を包み込む。
だが、その瞳に生気はない。
極限の絶痛と引き剥がされた霊力のせいで、焦点の合わない緋色の瞳は虚空を見つめたまま、熱に浮かされたように浅い呼吸を繰り返している。
その足元の床に、転がり落ちた小さな硝子の小瓶が目に入った。
「……何、これ」
小瓶を拾い上げ、わずかに残る香りを嗅いだ瞬間、強烈な悪寒が走った。
全身の霊脈が無理やり広げられるような感覚。
《……『破脈の硝液』だ》
いつの間にか背後に歩み寄っていたハクが、冷ややかな声で告げた。
その瞳には、かつてないほどの警戒の色が宿っている。
《霊脈を強制的に拡張し、底から霊力を引きずり出す禁忌の劇薬……。これでまだ生きているのは……――!》
ハクが何かに気付いたように緋月の身体を見つめる。
しかし、それ以上、語ろうとしないのは、今はその時ではないのだろう。
霊脈の致命的な損傷であるなら、まずは応急処置だ。
琥珀はポケットから沙羅姫からもらった『霊脈回復の呪符』を取り出した。
五枚あるうちの二枚を引き破り、放出された霊力を緋月の身体へと纏わせる。
そっと胸の上に手を置き、緋月の体内の状態を確認する。
しかし――。
「……呪符の効果を薬が上回ってる……」
残る呪符を使ったところで結果は同じだろう。
沙羅姫から渡された『万霊の秘薬』も手元にあるが、劇薬同士を同時接種して何が起こるかわからない。
まずは、『破脈の硝液』の効果を打ち消さなければ。
(どうすれば……)
ふと、琥珀は一つの答えに行き着く。
口から入った異物なら、口から出せばいい。
胃の中にある薬液も、霊脈を渦巻く呪いも、全て私が引き受ける。
これは、霊脈を繋ぐことのできる双星にしかできないことだ。
「ハク、止めないでね」
《…………》
白虎は口を閉ざし、反意の言葉を飲み込んだ。
主の望むこと、そしてそれが二人の因果を繋ぐ唯一の方法であることを、誰よりも理解しているからだ。
「……緋月、勝手にごめん」
琥珀は緋月の冷え切った頬を両手で包み込み、その唇へと自らのそれを重ねた。
霊脈を探るまでもない。
緋月の体内で暴れ狂う、鋭い硝石のような悍ましい気が、繋がり合った霊脈の回路を通じて流れ込んでくる。
「――っ、!」
口の中を無数の細かなガラス片で切り裂かれるような、激痛。
己の霊脈に直接ナイフを突き立てられる感覚に、琥珀の喉から小さな悲鳴が漏れかけた。
(――緋月は、この何倍もの痛みを、たった一人で味わわされたんだ……っ)
「ふっ……、ぅ、ぐ……っ」
愛する半身の痛みを分かち合うように、琥珀はそっと緋月の髪を撫で、彼の口内からその禍々しい気を吸い出す。自らの体内でそれを結晶化させては床へと吐き出した。
あまりの激痛に自身の口元からも血が滲むが、手を緩めることはしない。
何度も、何度も、口づけを繰り返す。
「ふざ……ふざけんじゃないわよ、あなた……っ!!」
背後の壁際に叩きつけられていた斑目が、血まみれのドレスを纏ったまま、狂気と嫉妬に歪んだ声を張り上げた。
「私の……私だけの緋月に……! そんな真似、許さない……! 私だって、まだキスなんてしていないのに……!! なんで、なんでアンタがっ……!!!」
喚き散らす斑目の声など、今の琥珀の耳には一言も届かない。
緋月の体温だけを頼りに、琥珀はただひたすらに救済の口づけを重ね続けた。
どれほどの時間が経っただろうか。
緋月の体内で暴れていた硝石の気がすっかり削ぎ落とされ、荒ぶっていた霊脈がようやく微かに、しかし確かな安定を取り戻したその時――。
琥珀はゆっくりと顔を離し、息を整える。
緋月の瞳の奥に、ほんのわずかに生気の光が戻った瞬間だった。




