File-32【妄執履歴】斑目という女(4) ――染まりゆく呪印と、破滅へ向かう軽自動車
【時刻:二三時二〇分】
【現在地:大阪・高級ホテル――スイートルーム】
ガシャンッ!!
豪奢なスイートルームの壁に、グラスが叩きつけられ、無残に砕け散った。
「どうして……っ! どうしてこんなことに!!」
斑目の金切り声が、誰もいない部屋に響き渡る。
彼女は狂ったように室内を歩き回り、目につくものを手当たり次第に投げつけた。
テーブルの上のフルーツの盛り合わせを床にぶちまけ、高級な化粧品の瓶を鏡に叩きつけ、シルクのシーツを引き裂くようにベッドから引きずり下ろす。
「どうして! この私が! こんな目に遭わなきゃならないのよ!!」
ベッドを拳で何度も叩き、叫ぶ。
自分の血で汚れたドレス。
指輪を引き抜いたせいで傷だらけになった指先。
惨めだった。
あんな薄汚い質屋で、自分の内臓を痛めつけてまで小銭を乞うた自分が許せなかった。
私は金行の姫だ。
誰よりも美しく、誰よりも価値のある人間のはずだ。
それなのに、なぜ。
――ブブブッ。
床に放り出されていたスマートフォンが震えた。
画面には「非通知」の文字。
斑目はビクッと肩を震わせた。
怒りで沸騰していた頭に、バケツで氷水をぶっかけられたような悪寒が走る。
震える手でスマートフォンを拾い上げ、通話ボタンを押した。
「も、もしもし……」
『斑目。状況は把握しているな』
電話の向こうから聞こえてきたのは、『彼の方』の側近の男だった。
一切の感情が削ぎ落とされた、氷のように冷たく、刃のように鋭い声。
金行の術師を体現したかのような、無機質な響きだった。
「ち、違います! これは手違いで、すぐに私が――」
『言い訳は求めていない。我々が求めているのは、結果と数字だけだ』
側近は、斑目の悲鳴のような弁明を無慈悲に切り捨てた。
『オークションでの失態。そして口座の凍結。お前が引き起こした不手際により、本来上がるはずだった小型呪槍の利益、三十億円が水泡に帰した。これは我らにとって、看過できない「損失」だ』
「わ、私は何もしていません……! 私のせいじゃ……!」
『損失を出した不良債権には、相応の補填をさせる。それが我々の流儀だ』
側近の言葉には、斑目を人間として扱う温度が微塵もなかった。
ただの「数字」。ただの「不良債権」。
『明日の朝までに、あの施設で天緋金の呪槍を三百本用意しろ。それが三十億の補填だ』
「さ、三百……!?」
斑目は絶句した。
これまで緋月にどれだけ無理をさせても、一日に十本絞り出すのが限界だった。
三百本など、物理的に不可能な数字だ。
「無茶です! 明日の朝までにだなんて、そんなこと――」
『できなければ、お前は「処分」する』
心臓を氷の刃で貫くような声だった。
『何も生み出せない空の器に、存在価値はない。お前のその「他者の呪力に干渉ノイズを与えない」という特異体質ごと臓器を解体し、呪体実験の素材として売り捌く。……せいぜい、生きた器としての己の価値を証明することだな』
ツーツー、という無機質な切断音が耳の奥で鳴り響く。
斑目はその場にへたり込み、ガチガチと歯を鳴らした。
処分。実質的な、死刑宣告。
(殺される……っ、私が、殺される……っ!)
恐怖で視界が歪む。
どうすればいい。
三百本。朝までに三百本の呪槍。
普通にやれば不可能だ。
だが、やらなければ自分が解体される。
その時、斑目の脳裏に「あるもの」が閃いた。
(……あの薬)
地下工場の金庫に保管されている、特製の霊薬。
管理を任された際、上から厳しく言い含められていた。
『極力飲ませるな。どうしても出力が足りない時だけ使え。ただし、使っても一日に三滴までだ。それ以上飲ませれば、器が壊れる』
そうだ。あの薬だ。
あれを飲ませれば、緋月の霊力は爆発的に跳ね上がる。
(三滴まで? 知ったことじゃないわ。一本丸ごと飲ませてやればいいのよ!)
オークションに呪槍の生産を間に合わせるために数滴使っただけで、万霊の秘薬が必要なほど衰弱したが、それがどうした。
緋月がいなくても、私は、選ばれた人間なのだ。
彼の命を全部すり潰してでも、私さえ生き残ればそれでいい。
緋月の血の最後の一滴まで絞り尽くして、あの老いぼれどもを見返してやる!
極限の恐怖は、彼女の目を完全に曇らせていた。
組織にとって最も大切な資源は「緋月」であり、その命を失わせることこそが、己を完全に破滅させる自滅行為であることにすら、今の斑目は気づいていなかった。
「……ふふ、ふふふふっ。そうよ、簡単なことじゃない……!」
斑目は血走った目で笑い声を上げ、ふらふらと立ち上がった。
クローゼットから数少ない私物をかき集め、財布に残っていた最後の現金を握りしめる。
⭐︎
【時刻:二三時五五分】
【現在地:大阪――二十四時間営業レンタカー店】
「この金で、なんでもいいから車を貸しなさい!」
手持ちの現金を叩きつけてあてがわれたのは、あちこちが凹み、タバコ臭い軽自動車だった。
普段なら見向きもしないポンコツだが、今の彼女にはこれしか残されていない。
「あいつら……! 私をコケにした奴ら、全員後悔させてやる……!!」
キーを回し、誰の手垢か分からない、テカテカにすり減ったウレタンのハンドルを強く握りしめる。
怒りと恐怖、そしてどす黒い万能感が混ざり合い、斑目の顔は醜悪な鬼のように歪んだ。
その瞬間。
ハンドルを握りしめる斑目の腹部――服の下に刻まれた『偽胎の呪印』が、不気味に脈打った。
かつては緋色の光を放っていたはずのその印。
だが今、その奥底には、彼女の果てしない強欲と恐怖を養分にするかのように、どす黒い泥のような『瘴気』がじわりと滲み出し、渦を巻き始めていた。
「全部、緋月から絞り出してやる! 血の一滴、魂の欠片まで、残らず……ッ!!」
ボコボコの軽自動車のアクセルが乱暴に踏み込まれる。
エンジンが悲鳴のような排気音を上げ、車は夜の闇へと飛び出していった。
自らの肉体と魂が、決定的に変質し始めているとも知らず。
目指すは、奥出雲――島根県と鳥取県の県境に聳え立つ山。
斑目砂羽はただひたすらに、取り返しのつかない破滅への道を暴走していく。




