File-29【妄執履歴】斑目という女(2) ――栄華の亀裂
【時刻:二一時三〇分】
【現在地:大阪・会員制ホストクラブ――VIP室】
店内には、大人の色気を纏った上品なラウンジミュージックが流れている。
磨き上げられたテーブルに、シャンデリアの光がきらめいた。
フロアからはホストたちの威勢のいい掛け声や、客たちの弾んだ笑い声が聞こえてくる。
その喧騒から離れたVIP室では、今夜も豪華な宴が繰り広げられていた。
「いやぁ、ほんま景気ええなぁ! さすが、さわちゃんやわ!」
隣に座る担当ホストが、満面の笑みを浮かべた。
テーブルの上には、空になった高級シャンパンのボトルが何本も並んでいる。
その横で、彼は新たに開けたボトルを恭しく傾け、斑目砂羽のグラスを満たした。
「せっかく大阪まで来たんやし、楽しまな損やろ?」
「ふふっ。そうね。楽しまなくちゃ、来た意味がないもの」
斑目はグラスを持ち上げ、黄金色の液体を揺らした。
「せやろ? ほな、今夜は最後まで俺に付き合ってな。さわちゃんが帰りたないって思うくらい、楽しませたるから」
「あら。ずいぶん自信があるのね」
「そら、俺かて一応No.1やからなぁ。大事なお姫様を退屈させるわけにはいかへんやろ?」
彼はそう言って、極上の笑みで斑目の顔を覗き込む。
「……それとも、俺じゃ物足りひん?」
「まさか。あなた、なかなか面白いことを言うのね」
斑目はくすりと笑い、彼の頬を指先で軽く撫でた。
担当ホストは、子犬のように嬉しそうに目を細める。
「うわ、そんなんされたら、ますます帰したないやん……」
「ふふ。なら、もっと私を楽しませてちょうだい」
「はいはい、お姫様の仰せのままに」
彼は大袈裟に頭を下げてみせた。
斑目は満足げに微笑む。
心地よい。
実に、心地よい時間だった。
自分の機嫌を窺い、望む言葉を囁き、極上の笑顔を向けてくれる美しい男たち。
惜しみなく金を使う自分を、誰もが「特別な存在」として崇めてくれる。
その優越感が、たまらなかった。
「さわちゃん、次どうする? もう一本いっとく?」
担当ホストが、空いたボトルに目を向ける。
「ええ、お願い。せっかくの夜だもの。ケチケチする理由なんてないでしょう?」
「ははっ、ほんま頼もしいわ! ほな、景気よくいこか!」
彼がスタッフに目配せすると、ほどなく新しいボトルが運ばれてきた。
コルクの弾ける音が、豪奢なVIP室に響く。
その瞬間、斑目の胸に浮かんだのは、目の前の男とは別の人物の顔だった。
(万霊の秘薬もあちらに届いたかしら……)
グラスを傾けながら、斑目は内心でほくそ笑む。
(これで、『彼の方』からの評価も決定的なものになるはず)
彼の方から見出されて一年。
今回の小型呪槍の製造で衰弱した緋月を治癒するために、自腹で競り落とした逸品。
それを滞りなく届けることができれば、私は更なる高みへ登ることができる。
斑目は隣の男に視線を戻した。
「ねえ。あなた、私はどこまで上り詰められると思う?」
「どこまでって……そら、行けるとこまでやろ!」
男は迷いなく答えた。
「さわちゃんなら、何でもできそうやもん。なんちゅうか、普通の人とはスケールがちゃうねん」
「あら、嬉しいことを言ってくれるじゃない」
「ほんまのことやで?」
彼は斑目の手を取り、指先にそっと口づける。
「俺、さわちゃんみたいな人に出会えて幸せやわ」
その言葉を聞き、斑目は目を細めた。
――そうよ。
自分は、選ばれる側の人間なのだ。
金も、権力も、他人の称賛も。
手を伸ばせば、いくらでも掴み取れる。
天緋金を搾り続け、金行の頂点に上り詰める。
斑目はグラスを掲げ、琥珀色の液体を照明に透かした。
(金の姫の座は、私のものよ……!!)
その時だった。
テーブルの上に置いていたスマートフォンが、短く震えた。
画面に表示されたのは、見覚えのある番号。
闇オークションの運営からだった。
(……何かしら?)
斑目は通話ボタンを押しかけて、ふと思いとどまった。
隣には、担当ホストがいる。裏取引に関する電話を聞かれるわけにはいかない。
「ごめんなさい。ちょっと席を外すわね」
「ん? どしたん、さわちゃん」
「すぐ戻るわ。気にしないで」
斑目は微笑み、スマートフォンを手にVIP室を出た。
廊下を抜け、化粧室へ。個室に入り、扉を閉めてから通話ボタンを押した。
「もしもし。何の用?」
『斑目様。夜分遅くに失礼いたします。先日のオークションのお支払いについて、確認したいことがございまして』
「支払い?」
斑目は眉をひそめた。
『落札代金が、まだ確認できておりません』
「……は?」
思わず、声が低くなる。
「ちょっと、どういうこと? 落札代金なら、そちらで処理するように手配してあるでしょう?」
『はい。それが、決済が正常に完了しておらず……』
「だったら、出品した小型呪槍の売上と相殺しなさいよ! それくらい、そちらで融通が利くでしょう?」
苛立ちを隠そうともせず、斑目は言い放った。
しかし、電話の向こうから返ってきたのは、彼女の望む答えではなかった。
『申し訳ございません。斑目様のお取引口座を含め、関連するすべての口座が凍結されております。現在、売上金の移動も決済も行えない状態です』
「…………え?」
口座が、凍結?
何を言っているんだ、この男は。
「ちょっと待ちなさい。そんな話、聞いていないわよ」
『こちらも詳細を確認しているところですが、現時点では解除の見通しが立っておりません』
「ふざけないで!!」
斑目の怒声が、狭い個室に響いた。
「私が誰だか分かって言っているの!? どれだけ私があなたたちを使ってあげたと思っているのよ! 今すぐ何とかしなさい!!」
『……誠に申し訳ございません』
電話の向こうの声は、最後まで事務的だった。
斑目は唇を噛み、スマートフォンを握り締めた。
(全財産が凍結されてるなんて、嘘でしょ……?)
指先が冷たくなっていく。
つい先ほどまで、金も、地位も、権力も、すべて自分の思いどおりになると信じていた。
こんなことが起こるはずがない。何かの手違いだ。
そう自分に言い聞かせ、努めて冷静な声を作る。
「……いいわ。そちらの事情は分かった。こちらでも確認する」
そう告げると、斑目は一方的に通話を切った。
(大丈夫よ……今までこんなこと一度たりともなかったのだもの)
斑目は個室を出ると、鏡の前で髪を整え、口紅を引き直した。
顔に浮かんだ動揺を消し去るように、唇の端を持ち上げる。
何事もなかったかのようにVIP室へ戻ると、担当ホストが先ほどと変わらぬ極上の笑顔で迎えた。
「おかえり、さわちゃん。急ぎの用事やったん?」
「ええ、ちょっとした確認よ。もう大丈夫」
「そっか。ほな、続き楽しもか!」
彼は明るく笑い、テーブルの上のボトルに手を伸ばした。
斑目もグラスを手に取ったものの、先ほどまでの高揚感はすっかり冷え切っていた。
(口座の問題とカードの決済は別よ……)
まだ、すべてのカードが使えなくなったと決まったわけではない。
そう考えれば、今夜の会計を乗り切るくらい、どうということはないはずだった。
しかし――。
「ねえ。そろそろ、お会計をお願いできるかしら」
「えっ、もう帰ってまうん? まだまだこれからやん!」
「少し予定が変わったの。悪いけれど、お願い」
「しゃあないなぁ。ほな、伝票持ってきてもらうわ」
ほどなくして黒服が運んできたバインダーを一瞥し、斑目は迷いなく漆黒のカードを差し出す。
利用限度額など存在しない、彼女の富の象徴。
「これでお願い」
「かしこまりました」
数秒後。
ピピッ、と無機質なエラー音が鳴った。
「……申し訳ございません。こちら、承認されないようでして」
「は?」
斑目の笑顔が、ぴたりと固まった。
「もう一度試しなさい」
「かしこまりました」
数秒後――。
「申し訳ございません。やはり、承認されません」
「……そんなはずないでしょう?」
斑目はカードを受け取り、表面を見つめた。
これまで何の問題もなく、数千万単位の支払いを済ませてきたカードだ。
使えないはずがない。
「別のカードで試してちょうだい」
財布を開き、今度はプラチナカードを差し出すが――またしても、非情なエラー音がVIP室に響く。
斑目の顔が苛立ちに歪んだ。
「ちょっと、端末がおかしいんじゃないの? 別のもので試しなさいよ」
スタッフは一礼し、予備の端末を用意して改めて決済を試みた。
が、結果は、変わらなかった。
「嘘でしょう……?」
斑目の声から、急速に力が抜けていった。
普段ならこんな金額、気にも留めずに支払えるというのに。
斑目は財布の中を探り、三枚目のカードを取り出した。
指先が微かに震えている。
「なら、これよ。早く済ませてちょうだい」
震える指で差し出した三枚目も。
祈るように差し出した四枚目も。
すべて、使えない。
端末から繰り返されるエラー音が、彼女の優越感を一枚ずつ剥がしていく。
先ほどの電話が脳裏をよぎった。
――関連するすべての口座が凍結されております。
(まさか……本当に、すべて……?)
背筋を冷たいものが駆け抜けた。
「ちょっと、どういうことなの!?」
斑目はすがるように担当ホストを振り返った。
「私、今までこんなこと一度もなかったのよ? そちらの決済システムに問題があるんじゃないの?」
担当ホストは、静かにグラスを置き、困ったように眉を下げた。
「いやぁ、そう言われてもなあ……他のお客様の決済は通ってるみたいやし」
彼は申し訳なさそうに笑った。
「昨日も今日もようしてもろたんは感謝してるで? せやけど、店の売上は別の話やからな。お姫様言うても、支払いはしてもらわな困んねん」
その口調には、接客業としての丁寧さは残っていても、彼女を特別扱いする「甘さ」は完全に消え去っていた。
斑目は彼の顔を見つめた。
ついさっきまで、あれほど優しく笑いかけてくれていた男。
自分を楽しませるためなら何でもすると、指先にキスまでしてくれた男。
しかし、今の彼は違う。
目の前にいるのは、斑目という「女」ではなく、「金が払えない客」を見極めようとする冷徹なNo.1ホストだ。
「……私、こんなに注文しているのよ?」
斑目は担当ホストを睨みつけた。
「それなのに、少しくらい融通を利かせることもできないの?」
「そら、そう言われてもなぁ」
担当ホストは深くため息をつくと、姿勢を正した。
「俺らも商売やから。お代をいただかんことには、どうにもならへんねん。さわちゃんも、大人の遊び方知ってる人やろ?」
斑目は言葉を失った。
自分の機嫌を窺い、望む言葉を囁き、惜しみなく金を使う自分を称賛していた男。
その男が今、自分を厄介な客でも見るような目で見ている。
こんなはずではなかった。
金さえあれば、誰もが自分を特別な存在として扱ってくれる。
そう信じていたのに。
「……分かったわよ」
斑目は震える指で財布を開き、現金を数えた。
分厚い札束が入っているとはいえ、今夜開けた何本もの高級シャンパンの代金を賄える額ではない。
何度数えても――。
「……これじゃ、足りひんな」
横から覗き込んだホストの冷酷な宣告に、斑目の頬が引きつった。
金がない。支払えない。
今まで一度も経験したことのない惨めな現実が、目の前に突きつけられていた。
「……少し、待ってちょうだい」
斑目はスマートフォンを取り出した。
どこかに、まだ使える口座があるかもしれない。
誰かに連絡すれば、すぐに用立ててもらえるかもしれない。
そう考えて画面を操作するものの、どこにも突破口は見つからなかった。
ふと顔を上げると、担当ホストはもう笑っていない。
「お客様……お支払いをお願いいたします」
その声は、ただの「未払い客」へ向ける、ひどく冷たく、事務的な響きだった。
VIP室の入り口には、いつの間にか体格のいい黒服のスタッフたちが、逃げ道を塞ぐように無言で立っていた。




