File-23【交渉記録】結界爆破 ――お小遣いは頂戴します
「琥珀様。結界の境界まで到着いたしました」
運転席からかけられた控えめな声で、私はハッと目を覚ます。
(うわーー、めっちゃ寝てた……)
寝ぼけ眼を擦りながら身を起こす。
同時に、車内を清浄に保っていたハクの神気がスッと解け――開いた窓の隙間から、冷たく重い空気が流れ込んできた。
ビリビリと肌を刺すような、濃密な『金行』の気。
極限まで鍛え上げられた刃金のような冷たさと、血の匂いにも似た微かな鉄錆の匂い。
(ああ……間違いない)
一瞬で意識が覚醒した。
夕暮れに沈む山深い情景は、かつて私が逃げ出した五年前と何一つ変わらない。
息が詰まるような不気味な静けさと、途方もない重圧を放っている。
古来より製鉄で栄え、今なお五行の一柱として絶大な権力を誇る金行の聖地――『菅谷たたら』。
ここが私の生家であり、鳴神家の総本山だ。
「ありがとう。姫ちゃんによろしく伝えて」
私がそう告げて車を降りると、フルスモークの大型車は音もなく山道を下って走り去っていった。
今、目の前にそびえ立っているのは、鳴神家の本邸はおろか、山を丸ごとすっぽりと覆う巨大な大結界。
金行の初代から続く、由緒ある絶対防御の要だ。
鳴神の血を引く私と白虎なら難なく通過できるが、一つ問題があった。
一本だけ残った天緋金の小型呪槍と、沙羅姫から持たされた謎のジュラルミンケースだ。
そのまま正規のルートで結界をくぐれば、探知術式に引っかかり、没収か、悪くて鳴神家に潜む連中に『何か』を持ち込んだことに気付かれる危険性がある。
「うーん……よし。探知の網ごと、結界を『すこーーし』だけ壊して入ろう」
私はニィッと悪戯っぽい笑みを浮かべ、掌に高密度の金行の霊力を練り上げ始める。
ギュイイインッ! と、圧縮されたエネルギーが手元で激しく火花を散らした。
《――おい、琥珀。少し霊力が強すぎやしないか?》
「えーー? 金行総本山の大結界だよ? こんくらいやらないと穴なんて開かないって」
《いや、待て、早まるな。どう見てもそれは『すこーーし』の量では――――あぁ、……》
ハクが念話を飛ばして制止するよりも早く、私が放った極太の霊力の塊が、結界の表面にズドンッ! と突き刺さった。
ズズン……ッ! と重い地響きが起き、衝突点を起点にして放射状に無数の亀裂が走る。
ガキキキキッ! と耳障りな悲鳴を上げ、絶対防御の要は中央から大きく崩れ、ぽっかりと――いや、どう見ても『すこーーし』とは言い難い、特大の風穴を開けたのだ。
突風の余波で、周囲の木々までバキバキと薙ぎ倒されていく。
しんと静まり返る山の中。
「おおーーーーー……」
《おおーーーーー……》
もうもうと舞い上がる土煙の中、主従揃って、そのあまりに見事な崩壊っぷりを眺めながら感嘆の息を漏らしてしまった。
歴代当主が護ってきた鉄壁の大結界が、ただ霊力の塊を叩きつけただけで半壊してしまうとは。
私は我に返ったように、ケラケラと軽やかに笑い出した。
「見て見て! ハク! すごい! こんな力技で一発で穴が空いちゃった!」
《……だから待てと言ったのだ、この大馬鹿者が》
深く、深〜く天を仰ぐような、ハクの特大の溜め息が頭の中に響き渡る。
そんな保護者の頭痛などどこ吹く風で、私はポンッと手を叩いた。
「まあまあ、細かいことは気にしない! これでセキュリティは完璧に突破だよ!」
私はドヤ顔で言い放ち、警備が駆けつける間もなく、意気揚々と本邸へと乗り込んだ――までは良かったのだが。
⭐︎
私は今、当主の間で祖父の前に正座させられていた。
……というのは建前で、あぐらをかいてふて腐れる私の足元では、ハクが「退屈だ」と言わんばかりに大あくびをしている。
「――派手にやってくれたな、琥珀」
静まり返った当主の間に、低く老いた声が響く。
目の前に座る祖父――鳴神家の当主は、深みのある黒衣の上に、冷ややかな光を放つ錫色の羽織を纏っていた。
一分の隙もない和装に身を包んだその姿は、まるで研ぎ澄まされた名刀のようだった。
白髪の下から、冷たい銀の目が私を見据えている。
《……私は、しかと制止したからな》
すかさず脳内に響いたハクの念話に、私は思わず目を見開いた。
「ちょ、ハク!? なんで味方してくれないの!」
私は背後にいるハクの首元に両手を突っ込み、その豊かな毛並みをわしゃわしゃと乱暴に撫で回した。
「グルガァッ!」と猛虎の威厳もへったくれもない抗議の声を上げる神獣を容赦なくモフり続ける私を見て、当主である祖父は深々と片手で頭を抱えた。
「……帰ってこいと書状は出したが、自陣の結界をぶっ壊して帰って来いとは言っておらん……」
「破壊と創造は表裏一体です。あれは改良の余地有りかと」
ハクをこねくり回しながら悪びれずに言い返すと、祖父は疲れたように大きなため息をついた。
(……なんだ?)
私はモフる手を止め、祖父の顔をまじまじと見つめた。
怒号が飛んでくるか、あるいは冷酷な制裁が下るか。
帰宅早々こってり絞られると身構えていたのに、祖父の瞳には以前のような殺気がない。
気のせいだろうか。
目元のシワが増えたせいか、眼差しがわずかに穏やかになっている……ような気もする。
「……まあよい。壊してしまったものは仕方がない。それよりも、ついに儀式を受ける覚悟が決まったのだな――」
「いいえ」
祖父の言葉がまともに終わるより早く、私はぴしゃりと言い放った。
かつて床に這いつくばるしかなかったあの頃とは違う。
私は一切の感情を排した、冷たく凪いだ瞳で真っ直ぐに当主を射抜いていた。
「……沙羅姫殿からは、お前を説得したと聞いておったが……」
私の即答に、祖父は呆れたように肩を落とした。
だが次の瞬間、当主の間に満ちていた空気が、抜き身の刃のように鋭く張り詰める。
「『双星比和の儀』は絶対だ。お前が本家を空けることは許すが、これだけは譲れん」
老いてなお衰えることのない、鳴神家当主としての絶対的な威圧感が、肌を刺すような重圧となって私にのしかかった。
「私も、儀式を受け入れることはできません」
のしかかる重圧を、同じく冷徹な金行の気迫で真っ向から弾き返し、声のトーンを一段階落としてきっぱりと拒絶する。
当主の風格に一歩も引く気はないという、私なりの意志表示だ。
ヒリつくような視線が空中で激突する。
数秒の息詰まる沈黙の後、ふっと祖父のほうからその威圧感を解いた。
そして彼は、微かな霊力の波長すらも辿り、この部屋に盗聴や監視の網が一つも仕掛けられていないことを入念に確認した上で、一度深く目を伏せ、絞り出すように低い声を出した。
「……琥珀、これは誰にも明かしてはならない一族の業なのだが……儀式を受けなかった術師は――」
「『禍憑き』と化す」
祖父の言葉を先回りして告げると、彼は弾かれたように顔を上げ、驚愕に目を見開いた。
「……知っていたのか。……ああ、沙羅姫殿か……」
「はい。鳴神家の直系にしてこれほどの霊力……さぞかし醜悪で、強大な禍憑きとなるのでしょうね、私は」
まるで他人の不幸話でもするような私の口ぶりに、祖父はついに声を荒げた。
「それを知っていながら、なぜ儀式を拒む!?」
その顔に浮かんでいたのは、当主としての怒りというよりも、血を分けた孫が破滅へ向かっていることへの焦りと悲痛だった。
五年前の冷酷な祖父からは、想像もつかない表情だ。
「……やることがあります」
「やること……?」
「内容はお伝えしかねます」
私は小さく肩をすくめた。
そして、少しだけ声の強張りを解いて、呆然とする祖父へと言葉を継ぐ。
「事が終わったら、全てお話しします。もっとも、私は禍憑きになるつもりは毛頭ありません」
祖父は呆れたように息を吐き出し、険しい顔で問い詰めてくる。
「お前……次は何をしでかすつもりだ……」
「何をするも何も、ただ自分の『身の安全』を確保するだけです。――これ以上、私の手から大切なものをこぼれ落とさせないための、ささやかな防衛策ですよ」
すれ違うように脳裏を過るのは、冷たい檻に囚われた緋月の姿と、静かに寄り添うハクの温もり。
緋月を救い出し、己の自壊にハクを巻き込む未来をも断ち切る。
己の持てる力全てで大切な『相棒』を守ってみせる。
祖父には到底推し量れない私の本当の目的を心の奥底に沈め、私はパンッと軽く両手を打ち鳴らした。
「さて、重い話はここまでです。というわけで――」
私は姿勢を正し、完璧な営業用の貼り付け笑顔を浮かべた。
「まずは結界の張り直しをよろしくお願いします。強固な結界がなくては、到底、儀式もままなりませんから」
突然の話題転換と底抜けに明るいトーンに、祖父はハッとしたように顔を上げた。
「まさか……お前、それを狙って結界を……?」
「さあ?」
私はわざとらしく小首を傾げ、へらっと笑ってとぼけてみせる。
呆気にとられる祖父をよそに、私はさらに畳み掛けた。
「あ、あと、こちらに滞在する間の活動資金をください。お仕事の対価という形でもいいですよ」
「……いくらだ」
「五百万円です」
にっこりと、今日一番の輝く笑顔を向ける。
数秒の沈黙の後、祖父は疲労困憊といった様子で深く息を吐き出した。
「……三百万なら、すぐに用意してやろう」
(よしっ!)
私は心の中で力強くガッツポーズを決めた。
湊に巻き上げられた金額の6割を回収してやった計算になる。これで東京に戻った後の生活も安泰だ。
「それじゃ、話も済みましたし、私はそろそろ自室で休みまーす」
これ以上の会話は無用とばかりに、私は軽やかな動作で立ち上がり、ハクを連れて部屋を出ようと背を向けた。
その時だった。
「――琥珀」
背中越しに降ってきた静かな呼びかけに、私は足を止めた。
振り返らずに待っていると、ポツリと、独り言のような呟きが落ちてくる。
「……強くなったのだな」
さきほどの冷徹な当主としての威圧感はすっかり消え失せ、そこにあったのは、ただの一人の老爺の声だった。
私はゆっくりと振り返り、感情の読めない凪いだ瞳で彼を見返して、淡々と答えた。
「……ええ。もう二度と、理不尽に大切なものを奪われないくらいには」
その言葉を聞いた瞬間、祖父は息を呑み、痛みに耐えるように顔を歪ませた。
「……ああ、そうだな……」
絞り出すようなその声には、隠しきれないほどの深い自責の念が滲み出ていた。
きっと今、彼の脳裏には、五年前の記憶が浮かんでいるのだろう。
祖父としての情を捨て、冷酷に接し、そして、大切な者たちを切り捨てさせた。
その結果、彼自身が作り上げてしまったのだ。
生気を失った暗い瞳で、ただ機械のように力を振るうことしかできない――あの頃の私の姿を。
「それでは、失礼します」
私はそれ以上何も言わず、今度こそ当主の間を後にした。




