File-17【回想録】無様な涙 ーー世界一可愛いらしいです
熱いシャワーを頭から浴びると、冷え切っていた身体の芯にじわじわと温度が戻ってくるのを感じた。
前夜のオークションから肌にこびりついていた汗と、胃液の匂いを丁寧に洗い流す。
バスタブに溜まったお湯にゆっくりと身を沈めると、「ふぅ……」と、自分でも驚くほど深い溜息が漏れた。
極限まで張り詰めていた神経と、無意識のうちに強張っていた全身の筋肉が、温かいお湯の中にゆっくりと溶けて解れていく。
沙羅姫の言う通りだった。
あのまま飛び出していたら、私は冷静な判断力を失って、緋月の行方の糸口を自ら絶っていたかもしれない。まず私自身が正気を保たなければならないのだ。
ちゃぷん、とお湯が揺れる音だけが響く静寂なバスルームで、私は湯船の縁に後頭部を預け、ぼんやりと天井の曇りガラスを見上げた。
――なぜ、私はあんなにも鮮明に、あの子の『声』を受信してしまったのだろう。
確かに私は金行の術師で、金属の波長を読み取ることに関しては専門家だ。
しかし、これまでに『原料』を錬成した術師の声が聞こえたことがあっただろうか?
記憶の限りでは、ない。
大量生産にもかかわらず、一人の人間に『原料』を依存した金属など初めてだ。
今回が特例ということだろうか?
まるで自分の肉体が切り刻まれるような生々しい激痛と、絶望の叫び――。
そんな霊波を受信するなんて、異常だ。
「緋月――」
あの子があんなに苦しみの声を上げていた事実に、胸が締め付けられる。
逃避をするように、私は緋月との記憶を手繰り寄せた。
あの子はどんな子だったろうか。
素直で、優しくて、あたたかくて、いつも私の後をついて回ってきた男の子。
閉じた瞼の裏側で、真っ白な湯気が、記憶の霞となって風景を形作っていく。
『――琥珀ちゃん』
鼓膜の奥で、記憶の中の声がした。
緋月が無邪気に笑っていた頃の。私の業に巻き込んでしまう前の、彼を――。
* * *
遡ること十三年前。私が七歳、緋月がまだ四歳の時だった。
「音無緋月です……よろしくお願いします」
両親の影に隠れながら、ひょっこりとこちらを覗き込むようにして挨拶をしてきた少年。
色素の薄い柔らかな灰色の髪に、宝石のように澄んだ赤い瞳。
それが、彼との出会いだった。
音無家は鳴神家の分家にあたる。
古くから白虎に縁のある家系で、帯解の儀で両親を亡くし、祖父に引き取られた私に、世話役としてあてがわれたのが彼らだった。
緋月の母親と私の亡き母が親しかったこともあり、「ちょうど良い」と判断されたらしい。
緋月の第一印象は『妖精みたいに綺麗な男の子』だった。
そして――。
「……弱そう」
私は腕を組み、フンッと冷たくそっぽを向いた。
視界の端で、緋月の小さな肩がビクッと跳ねる。まるで足元から崩れ落ちるような、見事なまでにショックを受けた顔だった。
が、私は彼を慰めるような真似はしない。
そう。
当時の私は、両親を突然失った悲しみと、本家の最奥で匿われるようになった孤独感から、自ら周囲を遠ざけるほど拗らせていたのだ。
しかし、この綺麗で弱そうな男の子は、意外と根性のある子だった。
食事の時間はもちろん、稽古場へ向かう廊下でも、座学の時間でも、どこに行くにも緋月は私の後ろをトテトテとついてきた。
話しかけてくるわけでもなく、ただ一定の距離を保ち、大きな赤い瞳でじっと私を見つめるだけ。
特に害はないので、私は彼を放っておくことにした。
――ただ一つ、祖父との稽古の時間を除いては。
本人に「ついてくるな」と言っても伝わらないだろうと判断した私は、緋月の両親にお願いして、その時間だけは彼を別室に留めてもらうようにした。
当面はそれで問題なかった。
しかし、音無家と過ごすようになってひと月ほど経った頃のことだ。
「琥珀。立ちなさい」
薄暗い本家の道場に、祖父の冷酷な声が響く。
金行の基礎としての修行――呼吸と共に体内に流し込まれる高密度の『金気』を、自らの霊力のみで押し返すというもの。
失敗すれば、血管を内側から切り刻もうとするその力に耐えなければならないため、一般の術師は確実に押し返せるレベルで鍛錬を重ねる。
しかし、祖父は違った。
祖父は私が耐えきれるか、耐えきれないか、限界ギリギリを見極め、精密な霊力操作で金気を霊脈へとねじ込んでくる。
内臓を素手で掴まれ、ギリギリと握り潰されるような激痛。
「……ッ、カッ、ハァッ……!」
耐えきれず、私は板張りの床に膝をついていた。
口の中に強烈な血の味が広がる。
脂汗と血の混じった唾液が、ポタポタと床に染みを作った。
「その弱さが、お前の両親を死に至らしめたのだ。それほどの霊力に恵まれながら、この程度の圧力にも耐えられないのか」
「……ッ!」
見下ろしてくる祖父を、私は眼窩いっぱいに涙を溜めながら睨みつける。
それが、私にできる唯一の抵抗だった。
己の無力さのせいで、両親は死んだ。
突きつけられた呪いの言葉と痛みに耐え、歯を食いしばって立ち上がろうとした、その時だった。
視界の端。
道場の床近くにある、換気用の小さな地窓。
その格子の隙間から、赤い瞳が覗いているのが見えた。
緋月だった。
私と視線が交差した瞬間、彼はビクッと身をすくませ、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
――最悪だ。
絶対に、見られたくなかった。
こんな、親殺しの、床に這いつくばる無力で無様な姿なんて。
その後の稽古は散々だった。
激しい羞恥と動揺で集中力を欠いた私は、祖父にこれでもかというほどの霊力を浴びせられ、満身創痍で道場を後にした。
夕方。
私と音無家が暮らす別邸の玄関で、緋月がぽつんと蹲っていた。
私を見つけるなり、彼はパッと顔を上げて駆け寄ってきた。
「ダメって言われてたのに、勝手に見にいってごめんなさ――」
「なんで来たの!!」
完全な八つ当たりだった。
「来るなって、おばさんたちに言われてたでしょ!!」
私は緋月に詰め寄った。
ズタズタにされたプライドの反動で、声が震える。
「なんで……ッ!!」
それ以上は、言葉にならなかった。
祖父の前では絶対に泣くまいと張っていた糸が、プツンと切れたのだ。
ボロボロと、止めどなく涙が溢れ出す。
祖父の稽古を見られた上に、三つも年下の男の子の前で感情に任せて泣きじゃくってしまう。なけなしの自尊心は完全に砕け散っていた。
私がその場に蹲って泣き出すと、緋月は一瞬、オロオロと周囲を見回した。
だが、あろうことか。
四歳の彼は、私の小さな背中に、スッと両腕を回して抱きしめたのだ。
「なっ……!?」
「勝手に見に行ってごめんなさい。僕、琥珀ちゃんのそばにいたいだけだったんだ」
耳元で囁かれた声に、私は身を強張らせた。
「は?」
「僕、琥珀ちゃんが好き」
…………?????
何を言っているのだろう、この幼い少年は。
ひと月しか一緒に過ごしていない。その上、私はほとんど彼の存在を無視し、さっきまで怒鳴りつけていたというのに。
「………なんで……?」
混乱する頭から精一杯絞り出せた言葉は、ただの疑問だった。
緋月は私の背中から離れると、泣き顔の私を真っ直ぐに覗き込んだ。
「琥珀ちゃん、一生懸命で、とっても可愛い」
バカにしているのか、と詰め寄りそうになった矢先、彼の表情にハッとする。
頬を熱で染め、愛おしさを込めて三日月のように細められた赤い瞳。
彼は、汗まみれで傷ついた私を、まるで美しい極上の宝石を見るかのように見つめていた。
……たった四歳の子供が、あんな『熱』を孕んだ表情をするだろうか。
「か、かわ、いい……?」
困惑して固まる私に構うことなく、緋月は小さな両手で、私の濡れた頬をそっと包み込んだ。
「うん。世界で一番可愛い」
悪びれもせず、この上なく無邪気に、彼はふにゃりと微笑んだ。
そのひだまりのような笑顔と、まっすぐすぎる好意に、私はすっかり毒気を抜かれてしまった。
得体の知れない熱と、年齢に釣り合わない包み込むような優しさ。
それが、私が訳もわからずこの少年を受け入れてしまった、最初の理由だった。




