第9話 二度と家の者には
建国祭の朝、王宮の東の広間に賓客名簿が掲げられた。
紙は縦に長く、上から順に家名が並んでいる。掲げるのは式部官庁の役目で、掲げる前に三度読み合わせる。読み合わせに立ち会うのは、当日の接遇を受け持つ者だけだ。
一度目は綴りを見る。二度目は序列を見る。三度目は、同じ列に並べてはいけない家が並んでいないかを見る。三度目でいちばん多く声が上がる。今朝は二か所あって、どちらも十年前の縁組が理由だった。
イレーネはその列にいた。
濃い色の絹を着ている。今年は薄い色が流行っているが、接遇の側に立つ者は流行を着ない。
賓客顧問の任は来年からである。今日はまだ職に就いていない。ただ、来年から席を組む者は、今年のうちに一度、現場へ入ることになっている。入口の卓を任されたのは、そのためである。ケラーがそう言った。書面はまだ白いままで、卓の抽斗に入っている。
名簿の中ほどに、当家の一行がある。
ラウテンベルク侯爵。その下に、同夫人イレーネ・フォン・ラウテンベルク。
去年までは、当主の名だけだった。
改めたのは春のことで、理由の欄は無い。
八年、この行は一人だった。夫が誰かに引き合わせるとき、イレーネはたいてい半歩後ろにいて、名を呼ばれるのを待っていた。待っているあいだ、相手はこちらの顔を見る。見てから、名が出ないので、会釈だけして通り過ぎる。
まだご紹介をいただいておりません、という言い方がある。名乗りのない相手を、その場にいなかったことにする言い方だ。イレーネはその言葉を、夏に一度だけ人に向かって使った。
八年、その扱いを受けていたのは、こちらだった。
九時半、賓客の到着が始まった。
王宮の入口の卓には、銀の名刺盆が据えてある。屋敷のものより二回り大きく、縁は同じように立ち上がっていた。指の腹ほどの高さで、風の通る玄関でも載せたものが滑り落ちない。
朝のうちに、係の者が酢と灰で磨いていた。磨きたての銀は指の跡がつきやすい。
置かれた名刺は、格の高い順に積まれる。誰の名がいちばん上にあるかで、その日の場の重さが決まる。
今日は、イレーネがその順を決める側にいる。
十時十二分に、ラウテンベルク侯爵が着いた。
外套を脱いで、係の者に渡し、名簿の前に立った。名簿を上から順に読んでいるのが、離れたところからでも分かる。中ほどで目が止まった。
侯爵はその行をしばらく見ていた。指を上げて、紙に触れようとして、途中で下ろした。掲示に触れてはならない。
それから、広間のほうを振り返った。
見つけたのだと分かる。歩き方が変わったからだ。
近づいてくるあいだに、周りが少しずつ静かになった。何が起きるか分からないときのほうが、人は音を立てなくなる。
式部官庁の一同は入口の脇に並んでいる。ケラーもそこにいる。名簿を読んでいた老いた官吏が、紙から目を上げた。この方は四十年この仕事をしていると聞いた。四十年、人の並びだけを見てきた目である。
広間の柱のそばには、ヘルフェルト伯がいた。娘がふたりいる家で、この半年、ラウテンベルク家との縁組を望んでいるという話が回っていた。話を回していたのは義母である。
その義母も、来ていた。ヘルフェルト家の連れとして入っている。
侯爵が三歩手前で止まった。
「イレーネ」
「おはようございます、侯爵様」
口の端が動いた。名で呼んだのに、役職で返された。それでも、その顔には迎えに来た者の顔がある。
「並びを見た」
「はい」
「今年から、二人になっている」
「式部官庁がお決めになりました」
「そうか」
少し息を吸って、姿勢を整える。上着の襟を直す。第一の釦の下に、糸のほつれがある。誰も直していない。
「戻ってきてくれたのだと」
イレーネは答えなかった。答えないでいると、侯爵はその沈黙を自分の都合のよいほうへ読む。八年、そうしてきた人である。
ヘルフェルト伯が近づいてきた。伯の後ろに義母がいる。
「侯爵閣下。おはようございます」
「伯爵」
「そちらは」
侯爵が半歩、横へ動いた。イレーネのほうへ手を向けるためである。
八年待った動きだった。
そのとき、イレーネの手は別の客の名刺を持っていた。ヘルフェルト伯の一枚である。束の三番目と四番目のあいだへ差し入れるところで、指はもう位置を決めている。
「妻を、紹介いたします」
「本日は、ご来賓としてお迎えしております」
紙が束に入る音がした。爪の先ほどの、乾いた音である。
侯爵の手が、途中で止まった。肘から先が上がりきらないまま、そこにある。下ろす合図も、続ける合図も来ない。
イレーネは手を止めなかった。いま迎えているのは、ヘルフェルト伯爵閣下である。
伯が二人を見比べた。義母が息を吸う音がした。ケラーは動かない。老いた官吏だけが、手元の名簿にもう一度目を落とした。
「イレーネ」
「ヘルフェルト伯爵閣下。ようこそおいでくださいました。お席は南の列の三番目でございます。お連れ様は、その隣に」
伯は礼を返し、しかしすぐには動かなかった。
「侯爵夫人。差し出がましいことを伺いますが、ご夫君とは、いかなるご関係でいらっしゃいますか」
問いは丁寧だった。丁寧な問いは、答えを選ばせない。
「夏に、わたくしの家へご婦人がおいでになりました」
伯が息を止めた。
「いちばん良い客間へお通しいたしました。二度と、家の者にはいたしません」
広間の柱の向こうで、誰かが扇を落とした。拾う音がした。
誰が来たのか、何があったのか、こちらがどう思っているか。ひとつも言っていない。伯はそれを補って理解する。補って理解したものは、本人が理解したことになるので、取り消しがきかない。
侯爵は何も言わなかった。反論の順番を探している顔だが、探すべき言葉が出てこないのは、この半年で見慣れている。
義母が前へ出ようとした。ヘルフェルト伯が、腕を出して止めた。止め方が丁寧だったので、義母は下がるほかなかった。
義母は今日、招かれていない。招かれていない者が客の前で口を開けば、連れてきた家の格が下がる。伯はそれを守っただけである。義母は分かった顔をしていた。
ケラーが式部官庁の列から一歩出て、老いた官吏に短く何か言った。官吏がうなずき、広間側の扉が開けられる。人の目が、そちらへ流れた。
ケラーはイレーネのほうを見なかった。見ないでいることが、いまはいちばん邪魔にならない。
「入口の盆に、お名刺をお願いいたします」係の者が声をかけた。「本日は、みなさまに」
侯爵が上着の内側へ手を入れた。
出てきたのは一枚である。クリーム色の厚紙。飾りがない。左の上の角が折ってある。折り目は深く、一度で決まっていた。
十月に刷らせたものだ。寸法も、厚みも、書体も、この人が自分で決めた。厚みはいちばん上等なほうを選んでいる。触れば分かる。三年前の刷りは、これより一段薄かった。
卓の前まで歩き、盆の上に置く。
置く前に、指の腹で角の折り目をもう一度押さえた。深くなりすぎないように、浅く。
自分の手で、自分の名刺を、盆に置いた。八年で初めてである。
イレーネは卓の内側にいた。自分の手で盆から名刺を取るのは、今日が初めてになる。
盆の上には、すでに十一枚が積まれている。いちばん上は王弟殿下の一枚だ。
その一枚を取り上げた。
厚みが指に来る。上等なほうの厚紙は、持つと少しだけ重い。
束を左手で持ち上げ、右手の一枚を下から差し入れる。急がない。急ぐと縁に当たって音が出る。
指で押さえて、いちばん下まで。
盆の縁が立っているので、束はずれない。十二枚が、きれいに揃った。
「ありがとうございます」
相手は動かない。自分の名刺がどこへ行ったかを、目で追っていた。目で追っても、いちばん下は見えない。上から見える限りでは、盆の上に王弟殿下の一枚があるだけである。
そこへ、入口の外で車の音がした。
「シュタイン公爵閣下、ご到着でございます」
来客の途中に別の客が来れば、先の客は席を譲って辞去する。それが作法である。侯爵はその作法を知っている。知らなくても、周りが全員知っている場所では、知っているのと同じことになる。
侯爵は横へ寄った。
「侯爵閣下。お席へご案内いたします」
係の者が先に立った。そこで一度、こちらを見た。
「イレーネ」
「シュタイン公爵閣下がお見えでございます」
口を開いて、閉じる。
それから、係の者について歩き出した。背中は真っ直ぐだった。この人は姿勢だけは崩さない。八年、そこは変わらない。
三歩ほど行って、一度だけ足が止まりかけた。止まりきる前に、係の者が振り返らずに歩き続けたので、侯爵もそのまま進んだ。案内する者は振り返らない。振り返れば、客が立ち止まってよいことになる。
公爵が入ってきた。イレーネは進み出て、名刺を受け取り、盆に載せた。いちばん上に。
十時二十六分だった。
そのあと、十六人を迎えた。
名を受け取り、順を決め、席へ案内する。同じことを十六回した。屋敷でやってきたことと、手の動きは変わらない。違うのは、ここでは誰も、それを家の仕事だと言わないことだ。
途中で一度、ケラーが卓のそばを通った。何も言わずに、束の高さを見て、通り過ぎた。
昼を過ぎて、賓客が広間へ移ってから、卓の片づけが始まった。
盆の名刺は、束ごと式部官庁へ移される。当日の記録として残るものだ。
イレーネは束を持ち上げた。二十九枚ある。
上から順に、名を確かめていく。式部官庁へ渡す前に、順が崩れていないかを見るのが決まりだ。二十八枚目まで来て、指が止まった。止まる理由は無い。順は崩れていない。
いちばん下の一枚は、動かない。指を離しても、傾けても、そこにある。
盆の縁は、載せたものを落とさない。いちばん下の一枚も、そこにあり続ける。




