第10話 いちばん上のお名刺
賓客顧問室は、王宮の東棟の廊下の突き当たりにある。
建国祭の日に一度、わたくしは扉の外から中を見た。暗くて、机がひとつ置いてあるだけの部屋だった。
いまは窓の鎧戸を開けてある。南向きで、午後の二時から四時までがいちばん明るい。鎧戸の蝶番が固くなっていたので、油を差してもらった。
机はそのまま使っている。天板に、前の顧問の使った羽根ペンの跡が残っていた。削らずに置いた。
前の顧問は十九年勤めて、去年の秋に退いた方だそうである。引き継ぎの覚書が抽斗に一冊入っていて、最初の頁にこう書いてあった。断った家の名を、断った理由より長く覚えておくこと。
ケラー様が置いていかれた白い紙は、二月に埋めた。書いたのは三行である。承ります、と、着任の日と、名前。名前を書くのに、いちばん時間がかかった。
机の向かい、窓ぎわに、椅子をひとつ運び入れた。
背が低く、肘掛けの布だけ張り替えてあって、脚の木がほかの椅子と揃っていない。ラウテンベルク家の屋敷の、二階の部屋にあったものだ。運び手は二人で、階段の踊り場で一度持ち替えた。
母がその椅子で糸を選んでいたころ、母は光の向きが変わるたびに椅子ごと少しずつ回した。蝋燭では色が嘘をつく、と言って。
この部屋は南向きなので、回さなくてよい。
わたくしの在宅日は、火曜と金曜の午後である。
小さな暦にそう書いた。革の表紙のもので、角がまるくすり減っている。八年ぶんの印がついた頁は、そのままにしてある。破らない。使い切ってから、次のものにする。
三月の火曜、最初の来客があった。
扉のところで、係の者が名を告げる。ヘートヴィヒが盆を持って入ってくる。
あの人は、屋敷に暇乞いをして、こちらへ来た。二十年勤めた家を出るとき、大奥様の頃からの鍵をすべて納戸の箱に入れて、箱の蓋を閉めてから出たと言っていた。
引き止められたそうである。侯爵が自分で引き止めたと聞いた。ヘートヴィヒはそのとき何と答えたかを、こちらには言わない。訊いていない。訊かないことにしている。
こちらへ来て最初にしたのは、盆を磨くことだった。王宮の備品の盆である。酢と灰で、朝のうちに。
「奥様。ヴェルナー商会のご主人でいらっしゃいます」
盆の上に一枚。左の上の角が折ってある。
「お通しして」
商会の主人は、扉を入ってすぐに部屋を見回した。天井の隅、絨毯の縁、扉の幅。人は初めての部屋でみな同じ順に見る。
「お座りくださいませ」
窓ぎわの椅子を勧めた。
主人はそこに座り、肘掛けに手を置いてから、一度だけ座り直した。座り心地を確かめる動きである。夏に、同じ動きをした人がいた。あのときは、ここがわたしの席になるのね、と言われた。
言われた席に、いま人を座らせている。座らせるのはこちらで、立たせるのもこちらである。
わたくしは机の側に座った。受け取る側の席だ。
用件は、隣国からの使節をどの家に泊めるかという相談だった。商会が仲立ちをしている。
三つの家が名乗りを上げていて、どれも格に差がない。差がないときは、格ではないところで決める。
名簿の写しは、義母に返した。けれども、八年のあいだに余白へ書き足した一行ずつは、こちらの頭の中に残っている。
「先方の当主は、鳥の羽根を身につけません」
「羽根を」
「理由は存じません。名簿にそう書いてございます」
三つのうち一つの家は、玄関広間に鷲の剥製を置いている。その一件で決まった。
主人は帳面に書き付けながら、一度顔を上げた。
「そういうことは、どちらでお調べになりますか」
「調べるものではございません」
「では」
「伺ったことを、書いておくだけでございます」
八年、そうしてきた。書いておくことに名前がついたのは、この部屋へ来てからである。
主人は帰りぎわ、扉のところで足を止めた。
「侯爵夫人」
「イレーネと申します」
言ってから、自分の声を聞いた。八年、名乗ったことがない。
主人は少し驚いた顔をして、それから、あらためて礼をした。深さが、入ってきたときより一段深い。
名乗るというのは、こちらから差し出す動作なのだと分かった。
四月に、隣国の使節を迎える宴があった。
わたくしは接遇の側に立った。入口の卓、銀の盆、名刺の順。手の動きは屋敷でやっていたことと変わらない。
使節が着いて、ケラー様が案内に立った。席の並びを一通り説明し、控えの間の場所と、翌日の予定を伝える。順序に無駄がない。
それから、こちらへ手を向けた。
半歩、横へ動いてから。
「こちらが、イレーネ様でいらっしゃいます」
家名を言わなかった。ラウテンベルクとも、侯爵夫人とも。
使節が礼をした。わたくしも礼を返した。
礼を返しながら、指先が少し冷たいことに気づいた。冷たいのは寒いからではない。広間には炉が三つ入っていて、むしろ暑いくらいである。
去年の初め、ヴァレンティン家の夜会で、夫が知り合いに向かって、うちの者です、と言った。あのとき相手は、わたくしの顔を見て、それから会釈だけして通り過ぎた。名前を出してもらえない者は、その場にいなかったことになる。
いなかったことになった回数を、わたくしは数えていない。数えていないが、身体は覚えていたらしい。
半歩、横へ動く。手を向ける。名を言う。三つの動作である。三つとも、やろうと思えば誰にでもできる。
宴が終わってから、ケラー様が卓のそばへ来た。
「本日はお疲れさまでございました」
「ケラー様」
「はい」
「先ほどは、家名を仰いませんでした」
「はい」
「なぜでしょう」
ケラー様はしばらく黙っていた。この方が黙るのは、答えを探すときではない。言ってよいかどうかを決めるときである。
卓の上で、燭の芯が一度傾いて、また立った。
「当庁の仕事で申し上げるなら、賓客顧問の名で紹介するのが正しい形です」
「では、当庁の仕事でないなら」
「あなたの名で呼ぶ人が、この街に一人もいないと知ったからです」
窓の外はもう暗く、卓の上の燭台だけが灯っていた。
八年、わたくしを名で呼んだのは、夫と、義母と、母だけである。母は六年前に亡くなった。残る二人は、呼びながら、こちらを見ていなかった。
「そのように呼んでよいものかどうか、半年考えました」
「半年も」
「席を組む仕事をしております。誰をどこに座らせるかは、勝手に決めてよいことではありませんので」
この方は、去年の秋に来客帳を読んだときも、こちらの許しを得てから頁を開いている。納戸から出させたのはこちらだが、開く前に一度、目でお伺いを立てられた。あのときは気づいていない。
わたくしは盆の上を見た。今日の分の名刺が、二十二枚積んである。いちばん上は隣国の使節のものだ。
この方は、わたくしを盆に載せなかった。載せてよいかを、半年かけて訊きに来た。
八年、名を呼ばれるのを待っていた。待つのをやめたのは去年である。やめたつもりでいた。
名で呼ばれた日に、こちらから名を呼ぶ相手を決めていなかったことに気づく。
「ヴィルヘルム様」
呼んでから、少し間があく。
「はい」
「来週の火曜は、在宅日でございます」
ケラー様は一度、目を伏せた。それから、上着の内側に手を入れて、名刺を一枚出した。
「では、そのときに」
角は折られていない。折るのは、次に来たときでよい。
受け取って、盆には載せずに、暦のあいだへ挟んだ。来週の火曜の頁に。
挟むとき、指が少し急いだ。急ぐ理由は無い。頁は逃げない。
その年の夏に、ラウテンベルク侯爵が後添えの話を進めているという噂が回った。話は秋までに立ち消えた。ヘルフェルト家からは断りの返事が来て、それきり名刺も届かなかったと聞いている。
侯爵は在宅日を定めたそうである。木曜の午後。
訪う者はいない。
十月の終わりに、屋敷から荷が届いた。婚礼のときに持ってきたもののうち、まだ残っていた分である。木箱が三つ。中身は布と食器で、目録がついていた。目録の字はヘートヴィヒの後任の手である。丁寧で、少し大きい。
その荷に、一通の書状が入っていた。封は切らなかった。開けなくても、この人が何を書くかは分かる。分かるからではなく、返さないと決めたから開けない。
書状は、木箱と一緒に納戸へ入れた。捨てはしない。捨てると、捨てたことがこちらの行いになる。
離縁を申し立ててはいない。申し立てれば、それが返事になる。侯爵夫人の名は、あの家に置いたままにしてある。
机の抽斗から、自分の名刺を一枚出した。
刷ったのは先月である。刷り屋は、三年前に夫の名刺を頼んだのと同じ店にした。主人はこちらを覚えていて、備考の欄に何を書きましょうかと訊いた。何も要りません、と答えた。
クリーム色の厚紙。上等なほう。飾りはない。寸法も書体も、自分で決めた。イレーネ、とだけ入れて、家名は入れていない。
家名を抜いた名刺は、どこの家の盆にも載らない。載らなくてよい。
右の下の角を、指の腹で折った。
厚紙は上等なほど、折るときに音がしない。窓のほうで鎧戸が一度鳴って、それだけが部屋の音だった。
右下を折るのは、長い別れの挨拶になる。遠くへ発つ者が、もう当分は伺えませんと告げるときの形だ。
わたくしはどこへも発たない。この部屋にいて、火曜と金曜の午後に人を迎える。それでも折り方はこれでよい。
封筒に入れて、ラウテンベルク家宛ての宛名を書いた。封はしない。閉じるほどの用件ではない。
ヘートヴィヒが封筒を受け取り、両手で持って出ていった。片手で足りる重さである。
戻ってきて、卓の上の盆を持ち上げる。今日は火曜で、これから来客が三人ある。
「奥様。今日は、いちばん上にどなたのお名刺を置きましょう」
机の向かいで、母の椅子に日が届いている。まだ誰も座っていない。
盆の縁に指を触れて、わたくしは、いちばん上に置く名を選んだ。
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