第7話 返礼はいたしません
一通目は、ご来客が門の外に立っていた日の三日後の朝に届いた。
盆には載らない。手紙は盆に載せるものではないから、銀の受け皿のほうへ置かれる。受け皿は玄関の卓の右手にあって、こちらは磨かない。曇ったままの銀で、光を返さない。
イレーネは封を切って読んだ。
長い手紙だった。四枚あって、三枚目までは説明である。八ヶ月のあいだに何があったか、なぜ言わなかったか、それをどう考えているか。四枚目に、体面は保つ、別居でも構わない、と書いてあった。
字は詰まっていて、行の終わりが下がっている。三枚目の途中から、一行に入る字数が増えた。
読み終えて、封筒に戻した。
書き物机の抽斗に入れる。二番目の抽斗は、名簿の写しを返してから空になっている。
返礼はしなかった。
手紙には手紙を、訪いには訪いを、名刺には名刺を返す。翌日、遅くとも七日以内。それが決まりで、返さないというのは忘れたという意味にはならない。返さない人は、返さないと決めた人である。
イレーネは八年で二千回以上、人を断ってきた。断ったあとに返礼を差し出した相手が、そのうち何人いたかも覚えている。
一度だけ、返礼を差し出さなかったことを悔いた家がある。四年目の秋で、その家の当主が翌年に亡くなった。葬列に加われる立場ではなくなっていた。あの一件から、断るときは必ず、返すか返さないかを先に決めてから断るようになった。
作法を知っている人は、返礼が来ないことの意味を知っている。
二通目は九日後だった。
こちらは短い。一枚で、半分ほどしか埋まっていない。会って話したい、とある。
三通目は、その四日後。
三行だった。三行のうち二行は、前の手紙を読んだかという確認である。
三通とも、同じ抽斗に入れた。並べて置くと、紙の白さが少しずつ違う。買い足したのだろう。
十七日目の午後、門の鈴が鳴った。
在宅日ではない。ヘートヴィヒが出ていって、しばらくして戻ってきた。手には受け皿と盆の両方がある。
受け皿には四通目の手紙。あとで開けると、一行だけだった。会ってくれ、とある。
盆の上に、一枚載っている。
クリーム色の厚紙で、飾りがない。書体には見覚えがある。三年前に、イレーネが刷り屋と決めたものだ。
左の上の角が折ってある。
本人が持参したという印である。
「旦那様は、門のところにおいででした」
「そう」
「お取り次ぎいたしましょうかと申し上げましたら、置いていくとだけ」
「どのくらい、おいででしたか」
「門番の話では、四半刻ほど。中へは入られませんでした」
イレーネは名刺を手に取った。角の折り目は指の腹で押した跡が残っていて、二度折り直したのが分かる。
二百八十枚のうちの一枚である。刷ったとき、この人はこの紙を見ていない。
「封筒を持ってきてちょうだい」
ヘートヴィヒが白い封筒を持ってきた。
名刺を入れて、封をせずに、宛名だけ書いた。ラウテンベルク侯爵閣下。
封をしないのは、中身を検めよという意味ではない。閉じるほどの用件ではないということである。宛名の字は、イレーネが八年、この家の書状に使ってきた形だ。招待も、断りも、弔いも、みなこの字で出してきた。
名刺を封筒に入れて返すのは、お訪ねは歓迎しないという意味になる。封筒に入れれば、話の余地がなくなる。
「明日の朝、お届けして」
「かしこまりました」
「使いの者に持たせてちょうだい。あなたが行ってはいけません」
侍女頭は一礼した。
その週のうちに、街のほうの話がいくつか入ってきた。
ヘートヴィヒは噂を持ってこない人だが、屋敷に出入りする者は持ってくる。仕立屋、花屋、氷屋。話は勝手に廊下を通る。
花屋の話では、ヴェルナー商会の奥様が、春に約束していた後援を取り下げられたという。理由は述べておられない。
その奥様とは、五年前の秋にラウテンベルク家の名で引き合わせている。イレーネが名簿の余白に書き込んだのは、この方は約束の日を三度確かめる、という一行だった。三度目の確かめに応じられなかった相手は、それきりになる。
同じ週に、音楽会を開いていらっしゃる四つのお家のうち、三つが日取りを組み直された。組み直された表に、ある歌い手の名前は入っていない。
仕立屋は、注文が一件取り消されたと言った。夏の舞台のための衣装で、生地はもう裁ってあったそうである。裁った生地は戻らない。
八年前、イレーネは義母から名簿の写しを受け取った。
あれは家の財産ではない。誰と誰がどう繋がっていて、誰の紹介なら話が通るかという、信用の束である。束は貸せる。貸したら、貸した人の信用で回る。回っているあいだ、借りた人は自分の力で回っていると思う。
束を返せば、束は止まる。
金は動いていない。誰も損をしていない。ただ、紹介する人がいなくなっただけだ。
紹介というのは、名前を出すことである。名前を出した人は、出した分だけ責を負う。八年、イレーネはその責を引き受けてきた。引き受けているあいだ、それは仕事に見えなかった。
その報せは、夫のところにも届いたはずである。届いたと分かるのは、手紙がやんだからだ。
金曜の午後、ケラーが二度目の訪いに来た。
名刺の左上が折ってある。前と同じ折り方で、同じ深さだった。
青の客間へ通す。ヘートヴィヒが白の揃いを出した。
「先だってのお話ですが」ケラーは腰を下ろしてすぐに言った。「当庁の席の件、書面をお持ちしました」
卓の上に、二枚の紙が置かれた。一枚は職の説明で、もう一枚は白紙である。
「白いほうは」
「お書きにならないための紙です。断るときも、書面が要ります」
イレーネは職の説明のほうを読んだ。賓客顧問。任期は三年。王宮の儀典において、賓客の並びと接遇の可否について意見を述べる職。
条には、こう書いてある。着任者は、王宮の名において客を迎え、また断ることができる。
俸給の額は、想像していたより高い。想像したことがなかったので、比べるものがない。
「わたくしは、家政しかいたしておりません」
「家政です。当庁の仕事は、家政を国の大きさでやることです」
「侯爵夫人が王宮の職に就くのは」
「前例は二人おります。どちらもご健在です」
イレーネは紙を置いた。窓の外で、庭師が鋏を使う音がしている。
「ケラー様。なぜ、わたくしなのでしょう」
ケラーは少し黙った。
「お救いするのではありません。席を、お選びいただきたいのです」
「お選びに」
「当庁は席を組む役所です。誰がどこに座るかを決める。わたくしが差し上げられるのは、そこだけです」
イレーネは自分の手を見た。膝の上で、指が組まれている。八年、この形で座ってきた。
この手が動かしてきたのは、盆と、帳面と、暦だけである。それらを動かすたびに、誰かがどこかの部屋へ入り、誰かが入らなかった。入らなかった人のほうが多い。
「お返事は、いつまでに」
「来年です」
「そのように長く」
「長くはありません。三年勤める職ですので」
「書面は、お決めになってからで結構です。白いほうは、置いてまいります」
滞在は二十二分だった。白紙の一枚は、卓の上に残されている。
見送りに立って、玄関広間まで下りた。門番が扉を開ける。ケラーは敷石の上で一度足を止め、それから振り返らずに車へ乗った。
扉が閉まる。
玄関脇の卓に、銀の盆が据えてある。
そこに、一枚載っていた。
クリーム色の厚紙。飾りがなく、左の上の角が折ってある。
「奥様」
ヘートヴィヒが横に立った。
「いかがいたしましょう」
イレーネは盆の縁に指を触れた。名刺は、いちばん上に載っている。他に一枚も載っていないので、いちばん上でしかありようがない。
「そのままで結構です」
「返礼は」
「いたしません」
盆の銀は、朝に磨いたばかりで、指の跡がひとつ残った。
返さないという返事があることを、あの方はまだご存じない。




