第6話 何もと言われて
「奥様は、何とおっしゃったの」
エーリク様は、辻の車の窓のほうを見ていました。
「何も」
「何も、ということはないでしょう。わたしがあの家に行ったのよ。玄関で名乗ったのよ」
「何も言わない」
わたしは待ちました。この人は、少し置いてから話すことがあるから。三つ数えて、五つ数えて、十まで数えました。窓の外を家が三軒過ぎました。
エーリク様は何も足しませんでした。
あの日、わたしはいちばん良い部屋に通されたの。白い茶器でお茶も出たわ。あんなに丁寧にされたのは生まれて初めてだった。帰り道で、これは負けたということかしらと思って、すぐに打ち消しました。負けた人は、いちばん良い部屋になんて通さないもの。
三十分で帰されたことだけが、少し引っかかっていました。
それから、屋敷には四度呼ばれました。エーリク様が呼んでくださったの。
四度とも、同じ部屋でした。
お茶は出ます。ただ、白い揃いの茶器が出たのは初めの日だけで、あとは青い縁の器でした。欠けたところを金で継いだのが混じっていたこともあります。二度目のとき、わたしはそれを手に取って、明るいほうへ向けて見ました。継ぎ目は指で触れると段になっているの。
南に窓のある、青い部屋。八脚あった椅子が、いつからか七脚になっていました。窓ぎわの古い椅子がなくなっているのは、二度目のときに気づきました。あれはわたしが座った椅子です。
廊下の途中に衝立が立っていて、その先の絨毯は色が違います。
三度目のとき、わたしは衝立の向こうへ行こうとしました。エーリク様のお部屋を見たかったの。北向きの、暖炉のそばの絨毯が焦げているお部屋。あの焦げ跡はわたしがつけたのだから、見に行く権利くらいあると思ったのよ。
侍女頭がすぐに来ました。あの人はいつもどこかにいます。足音がしないのに、振り向くと立っているの。
「お客様。そちらは来客の区画ではございません」
「わたし、エーリク様に呼ばれたのよ」
「はい。青の客間でお待ちくださいませ」
四度目のとき、エーリク様がご自分の部屋の扉を開けようとして、開かなかったのを見ました。
上着から鍵を出して、それでようやく開けたの。
「鍵をかけるようになったのね」
「錠を替えた」
「どうして」
「妻が替えた」
奥様の名前が出たのは、それが初めてでした。名前ではなく、妻、という言い方でしたけど。
「奥様は、何とおっしゃったの。錠を替えるとき」
「何も」
わたしはまた待ちました。今度は二十まで数えました。
そのあいだ、エーリク様は鍵を上着の内隠しに戻して、もう一度出して、また戻しました。
鍵は二本あります。片方は新しくて、まだ光っています。もう片方は古くて、歯の先が丸くなっていました。古いほうがどこの鍵なのかは、伺いませんでした。伺えば、また何もと言われる気がしたのよ。
初めのころ、後援してくださるという方が七人いらしたの。
商会主が二人と、伯爵夫人がひとりと、あとは音楽会を開いていらっしゃるお家の方が四人。みなさん、ラウテンベルク家の紹介状を見て、すぐにお返事をくださいました。春の音楽会の話も進んでいたのよ。
五月の終わりから、お返事が来なくなりました。
いちばん熱心だったのは、ヴェルナー商会の奥様です。三月に、あなたの声は硝子のようだと書いてくださったの。あの手紙はいまも持っています。四月に二度お会いして、五月に一度。それきりです。
こちらから差し上げた手紙に、返ってこないの。断りの文もありません。断られたなら分かるけれど、何も来ないのだから、わたしはまだ待っているところなのだと思っていました。
六月に、音楽会の日取りが決まったと人づてに聞きました。わたしの名前はありませんでした。
そのお家に伺ったら、玄関で使いの人が出てきて、こう言うのです。
「奥様はご在宅ではございません」
明かりはついていました。
わたしはそれから、名刺というものを作らせました。
厚紙のいちばん上等なのを選んだの。クリーム色で、婦人のものはやや大きめ。男の方のは、上着の内隠しに入る寸法だそうです。
飾りを入れましょうかと刷り屋が言ったので、わたしは断りました。上等なお家ほど、飾りを使わないのだそうです。ちゃんと調べたのよ。
刷り上がりを取りに行った日、店の中は油と紙の匂いがしていました。束を持たせてもらったら、思っていたより重かったの。二百枚の紙は、両手でないと持てません。
二百枚刷って、その日のうちに十七軒へ差し出しました。
一週間待ちました。返礼の名刺は、七日以内に来るのが決まりだと聞いています。
十日経って、二軒から来ました。どちらも刷り屋の同業のお家でした。
残りの十五軒からは来ません。
わたしの名刺は、どこかの家の盆の上で、いちばん下に敷かれているのだと思います。あるいは、盆に載せてもらえてもいないのかもしれません。名刺は作れます。お金を出せば誰でも作れるの。載せるかどうかを決めるのは、作った人ではないのです。
名刺を刷ってから、三週間が経ちました。そのあいだに屋敷へ呼ばれたのは一度きりで、その日はお茶が出ませんでした。
先週、エーリク様に伺いました。あの家で、わたしのことをどう話しているのか。
「奥様は、何とおっしゃったの」
「何も」
エーリク様は、わたしの顔を見ずにそうおっしゃいました。それから、卓の上の何かを指の腹で押さえていらっしゃいました。何もないところを、二度。
紙の束は、いまも部屋の卓の上にあります。十七軒に差し出して、二軒から返礼が来て、残りは百八十三枚。数えたのは一度きりです。
わたしは、あの人を怒らせたかったのだと思います。
泣いてほしかったのでも、責めてほしかったのでもなくて、あの人の八年のどこかに、わたしという傷がひとつ残ってほしかったの。
何も、が返ってくるたび、わたしはどこにもいない人になった。




