第5話 ご在宅ではございません
金曜の午後、二時四十分に、門の鈴が鳴った。
札に焼いてある刻限は三時からである。二十分早い。
イレーネは二階の窓辺にいた。門の見えるほうの窓である。硝子が古く、右の下のほうに小さな泡が入っている。その泡を通すと、門のあたりが少しだけゆがんで見える。
外套は今日も脱がれていなかった。
ヘートヴィヒが玄関へ出ていく足音がした。
窓は閉まっているので、下の声は聞こえない。聞こえないが、ヘートヴィヒの言うことは分かっている。
奥様はご在宅ではございません。
その言葉は、家の中にいるかいないかを言うものではない。お受けしません、という意味である。断られたほうは、そうですかと言って帰る。窓に人影が見えていても、見えなかったことにする。
イレーネは、その断り方を八年で二千回以上使ってきた。使われたことは一度もない。
二千回のうち、半分は夫のためである。会いたくない相手、会えば長くなる相手、会えば断れなくなる相手。誰を断るかを決めるとき、イレーネは夫に相談したことがない。相談すれば、夫はその場で会うと言う。
門のところで、外套の裾が動いた。
帰らない。
声の中身は届かないが、二度、同じ長さの返事をしているのが分かった。
イレーネは窓から離れない。ただそこに立っている。
やがてヘートヴィヒが階段を上がってきた。
「奥様。お帰りになりません」
「そう」
「三度、同じことを申し上げました」
「ええ」
「お客様は、ご在宅かどうかを確かめさせろと仰せです。窓に人が見えたと」
「見えたのでしょうね」
ヘートヴィヒは黙っている。それから、もうひとつだけ申し上げますと言った。
「青の客間の、窓ぎわの椅子はどこへやったのかとお尋ねでした」
イレーネは硝子から目を離さなかった。
「なんとお答えしましたか」
「客間の調度を改めましてございます、と」
「それで」
「ご自分の席だとおっしゃいました」
門のところで、外套の裾がもう一度動いた。動いただけで、そこから先へは進まない。
あの椅子は先週、二階のイレーネの部屋へ運ばせた。運び手は二人で、階段の踊り場で一度持ち替えた。
いま、あの椅子には日が当たっている。
「ヘートヴィヒ。あなたが決めてよいと申しました」
「はい」
「では、そのように」
侍女頭は一礼して下りていった。
しばらくして、また鈴が鳴った。今度は一度だけで、それきり鳴らない。
二時五十五分に、二台目の車が門へ着いた。
こちらは辻の車ではない。黒い塗りの、紋のない二頭立てだ。降りてきたのは背の高い男で、外套を御者に預けてから門へ近づいた。手に何か持っている。
厚紙である。
門番が受け取り、それを玄関の中へ運んだ。ヘートヴィヒが盆に載せて、階段を上がってくる。
盆の上には一枚だけ載っていた。クリーム色の厚紙で、飾りがない。婦人のものより一回り小さく、男の胸の内隠しに収まる寸法である。
左の上の角が、少しだけ折ってある。
「ケラー様と仰せです。王宮式部官庁の」
角の折り目は、使いの者ではなく本人が持参したという印だ。
折る場所で意味が変わる。左の上は本人の訪い。右の下を折れば、長い別れの挨拶になる。遠くへ発つ者が、もう当分は伺えませんと告げるときの形だ。
イレーネは右下の角を親指でなぞった。折られていない。ただの直角である。
「お通しして。青の客間へ」
「かしこまりました。それから、お客様はまだ門の外におられます」
「ええ」
青の客間の窓ぎわには、いま何もない。脚の揃っていない古い椅子は、先週のうちに二階へ運ばせた。八脚あった椅子は、いま七脚である。
ケラーという人は、部屋に入るとまず天井の隅を見た。それから床の絨毯の縁を見て、扉の幅を測るように一度、目を動かした。
「ラウテンベルク侯爵夫人。お約束のない訪いをお許しください。式部官庁のヴィルヘルム・ケラーと申します」
「お座りくださいませ」
「建国祭の賓客の並びについて、当家の一行の登録を確かめに参りました。書面はすでにお届けしております」
「頂戴いたしました」
「本来は使いで足りる用件です」
「そのようでございますね」
ケラーは腰を下ろした。窓ぎわではないほうの椅子である。座ってから、自分が座った場所をもう一度見た。
「先だって、当庁の者がこちらへ伺いました。戻ってから、報告に一行だけ余計なことを書いております」
「どのようなことでしょう」
「この家の来客の扱いは、当庁の席次表と同じ組み方をしている、と」
茶が運ばれてきた。白の揃いである。ヘートヴィヒが自分で判断したのだろう。イレーネは何も言わなかった。
「来客帳を、拝見できますか」
「納戸に入れております」
「一冊で結構です」
ヘートヴィヒが四冊目を持ってきた。麻布の背に、指の跡がついている。
ケラーは表紙を開き、最初の頁から順に見ていった。行を目で追うのではなく、頁ごとに全体を眺めては次へ移る。丸と三角と横棒の並びを、模様として見ている。
三十頁ほど進んだところで、指を止めた。
「この記号は、どなたが」
「わたくしでございます」
「茶色い」
「黒は帳面の色でございますので」
ケラーは頁を戻し、四年前の冬のあたりを開いた。横棒の隣に、小さな印がある。その月の末に返礼を差し出した印だ。
「断って、返している」
「はい」
「断って返す相手と、断って返さない相手を、どのように」
「その方が、次にどなたをお連れになるかで」
ケラーは顔を上げた。
「連れてくる人の見当がつくと」
「三年ほど見ておりますと、およそ」
「およそ、で当庁の席次は組まれております」
茶の湯気が、二人のあいだで細くなっていった。
イレーネは、言ってから自分の言葉を聞いた。八年、誰にも訊かれなかったことだ。訊かれなかったので、答えを持っていることも知らずにいた。
ケラーは帳面を閉じた。両手で持って、卓の上に戻す。
「これは記録ではなく、判断です」
窓の外で、門の鈴が鳴った。四度目である。
ケラーはそちらを見なかった。
「当庁には、賓客の並びを組む席が三つあります。そのうちのひとつが、来年から空きます」
イレーネは膝の上で指を組み直した。
「わたくしに、何をお求めでしょう」
「求めておりません。空くという事実を申し上げました」
「わたくしは侯爵夫人でございます」
「存じております」
「家政の仕事は、家の外では仕事と呼ばれません」
「当庁では呼びます」
八年前、嫁いだ翌月に、義母から社交名簿の写しを渡されている。あのとき義母は、これで肩の荷が下りると言った。荷という言い方を、イレーネはそのまま受け取った。
ケラーは立ち上がった。滞在は二十五分で、辞去としては短くも長くもない。
「お返事は要りません。空くのは来年です」
玄関まで送った。門番が扉を開ける。
敷石の向こう、門の柱のところに、外套の娘が立っていた。一時間近く、そこにいることになる。
ケラーは門を出るとき、娘のほうへ軽く頭を下げた。
「ヴィント嬢」
娘は名を呼ばれて、一歩前へ出た。
「あの、わたくしは」
「本日は、こちらのお宅はご在宅ではないそうです」
ケラーはそれだけ言って、車に乗った。
車輪の音が遠ざかってから、ヘートヴィヒが敷石を歩いて門まで行く。娘の前で足を止め、両手を前で組む。
「お客様。奥様はご在宅ではございません」
娘はまだ動かない。名を呼ばれたことだけを持って、そこに立っている。
ヘートヴィヒが玄関の扉を半分閉め、それから全部閉めた。閂を下ろす音が、玄関広間の石に響いた。
イレーネは二階へ戻った。部屋の窓ぎわには、母の椅子が置いてある。座らずに、その脇を通って、泡の入った硝子のところに立った。
膝の上の小さな暦を開く。今日の欄に、金曜の印がついている。書いたのは自分の手だ。誰の都合でもない。
門の外の人影は、日が傾いて石畳の色が変わるまで、その場所にあった。
奥様はご在宅ではございません。
それを真に受けたふりをして帰るのが、この街の礼儀だった。




