第4話 大奥様の失言
火曜の午後に、わたくしは呼ばれてもいないのに参りました。
呼ばれなくても行ってよいのが、家というものです。玄関には見たことのない木の札が掛かっていて、火曜と金曜、三時より六時までと焼いてありました。自分の家に札を掛けられる筋合いはありません。
門番が名刺を求めてきたので、そういうものは持ち合わせておりませんと申しました。門番は困った顔をして、ヘートヴィヒを呼びに行きました。
「大奥様。青の客間へご案内いたします。ご来客が二組お見えでございます」
来客。わたくしが来客と同じ扱いというわけです。
青の客間には、二人おりました。ひとりは王宮式部官庁からの使いの方で、書き物の道具を膝に載せておられます。もうひとりは隣家のロヴェール伯爵夫人。この方とは三十年の付き合いになります。
嫁は入り口に近いほうの椅子に座っておりました。窓ぎわの、脚の揃っていない古い椅子には誰も座っておりません。
「お義母様。おかけくださいませ」
わたくしは窓ぎわの席に腰を下ろしました。いちばん眺めのよい席です。
式部官庁の方は、来年の建国祭の賓客の並びについて伺いに来られたとのことでした。当家の席次は、この十年で三度上がっております。三度とも先代の功績によるものです。
「侯爵夫人。ラウテンベルク家の一行は、今年も前の年と同じ位置で承ってよろしいでしょうか」
「はい。式部官庁のお決めのとおりに」
「例年ですと、この一行はご当主の名で登録されておりますが」
「そのままで結構でございます」
伯爵夫人が扇を膝に置きました。三十年見てきた仕草です。話の向きを変えたいときに、この方はそうなさいます。
「今年の絹は、ずいぶん薄い色が出ておりますでしょう。あなたには濃いほうがよくお似合いになるのに」
「ありがとうございます」
そこでわたくしは、言うべきことを言いました。誰も言わないからです。この家の先のことを本気で案じているのは、わたくしひとりです。
「あなたが子を産まないから、こういうことになるのです」
部屋が静かになりました。
伯爵夫人の扇が、膝の上で止まりました。式部官庁の方は膝の紙に目を落とし、羽根ペンの先を布で拭き始めました。拭く必要のない先です。
嫁は、両手を膝の上で組んだままでおります。指の組み方も、背の角度も、わたくしが入ってきたときと同じです。あの子はこの八年、一度もこちらの言葉に言い返したことがありません。言い返さないから、こちらも遠慮というものを覚えずに済みました。
炉棚の時計が、二度、音を立てます。
「お茶を、お淹れ直しいたしましょうか」
それだけです。声の高さも変わりません。
ヘートヴィヒが新しい湯を運んでまいります。嫁は伯爵夫人の器を先に、次に式部官庁の方の器を満たしました。わたくしの器には、手を伸ばしません。
満たさなかったのではなく、順番が来なかったのです。来客が先で、家の者は後。作法どおりでございます。作法どおりに、わたくしの器だけが冷めてまいりました。
伯爵夫人が立ち上がったのは、それから十五分ほどしてからです。その十五分のあいだ、話題は天気と、隣国の綿の値と、来月の音楽会のことに限られておりました。誰も、わたくしの申したことに触れません。触れないということが、あの部屋の返事でした。
「今日はこれで。長居をいたしましたわ」
十五分は、短うございます。十五分未満は無礼にあたりますから、あの方は数えて立たれたのです。式部官庁の方も、それに続いて席を立たれました。
玄関で、伯爵夫人がわたくしのほうをご覧になりませんでした。三十年、そんなことは一度もございません。
家に帰ってから、気づいたことがあります。
あの部屋で、わたくしは醜聞と、金銭と、身体のうちのひとつを口にいたしました。訪問の席で持ち出してはならない話題です。八つのときに母から教わりました。教わってから五十年、破ったことはありません。
破ったのは、わたくしが家の者だと思っていたからです。家の中でなら、何を言ってもよいと。
けれども、あの部屋には来客が二組おりました。あそこは客間でした。
翌週の火曜、ロヴェール家からの返礼の名刺が届きませんでした。
その次の週も、届きません。次の月の初めに、あの家の在宅日の知らせが、近隣の家々に配られました。わたくしのところには参りません。
ロヴェール家の在宅日は木曜でございます。三十年、木曜の午後は、あの家の応接で過ごしてまいりました。今月から、木曜の午後には行くところがございません。
三日後、式部官庁から書面が届きます。来年の建国祭の賓客の並びについて、ラウテンベルク家の一行は当主と、その配偶者の名で登録するとのことです。先代未亡人の名は、その行にはございません。
わたくしはその書面を持って、屋敷へ参りました。
門番が名刺を求めます。持ち合わせておりませんと申しました。ヘートヴィヒが出てまいります。
「大奥様。本日は火曜でも金曜でもございません」
「イレーネさんに、話がございます」
「奥様は、ご在宅ではございません」
窓の二階に、明かりがついておりました。あれが何を意味するかは、わたくしがいちばんよく存じております。真に受けたふりをして帰るのが作法です。五十年、そうしてまいりました。
帰りの馬車で、膝の上の書面を二度読み返しました。
家を守るために言ったのです。誰も言わないから、わたくしが言ったのです。それだけのことでございます。それだけのことで。
玄関脇の卓に、銀の盆が据えてあります。あの上に、わたくしの名刺が載っていた月日を数えました。三十八年になります。
嫁いだ年から、いちばん上に載る名を選んでまいりました。八年前に、あの子へ渡しました。渡したときに、これで肩の荷が下りると申したのを覚えております。
わたくしの名は、どこの盆にも載らなくなった。




