第3話 八年ぶんの来客帳
来客帳は、玄関脇の卓の抽斗に入っている。
背は麻布で、角に牛革を当ててある。ヘートヴィヒが四冊目を下ろしたのは、去年の春だ。八年で四冊。
縦に三本の罫が引いてある。日付、お名前、お通しした部屋。四つ目の欄は狭く、そこには数字が入る。滞在なさった時間である。
さらにその右に、小さな記号がひとつ。丸、三角、あるいは横棒。
丸は、奥へお通しした方。三角は、客間まで。横棒は、ご在宅ではないとお伝えした方。
この記号を書き入れるのはヘートヴィヒの仕事ではない。名刺を受け取り、盆に載せ、奥様の部屋まで運ぶ。そこまでが侍女頭の役目である。記号は奥様がお書きになる。
奥様は名刺を一枚見るのに、長くて三つ数えるほどしかおかけにならない。厚紙の端を親指と人差し指ではさみ、少し傾けて、それから盆へ戻される。戻される位置が上か下かで、その方の扱いが決まった。盆の順を入れ替えるとき、指は下の一枚から動く。
判断は女主人のものであると、この国の家政では決まっている。誰を通し、誰を断るか。
記号のインクは、奥様がお使いになるものだけ茶色い。書き物机の右手の壺に入っている。理由を伺ったことはない。
八年で、丸が四百二十七。三角が九百九十。横棒が二千を超えている。
断るほうが多い。断るほうが難しい。
同じ横棒でも、次の月に必ず返礼の名刺を差し出す相手と、差し出さない相手がある。奥様は、そのどちらにするかを、名刺一枚を見て決めておられた。迷われるのを見たことがない。
四年前の冬、旦那様が狩の席で口論をなさった相手の家から名刺が届いた。奥様は横棒をお書きになり、その月の末に返礼の名刺を差し出された。翌年の春、その家の当主が旦那様の後見に回っておられる。旦那様は今日まで、その名刺のことをご存じない。
火曜の朝、玄関に新しい札が掲げられた。
木の札で、表に在宅日が焼いてある。火曜と金曜、午後三時より六時まで。裏は白いままだ。
ヘートヴィヒは札を掛け、位置を二度直した。掛け終えて振り返ると、奥様が階段の下に立っておられた。
「ヘートヴィヒ。来客帳を持ってきてちょうだい」
抽斗から四冊目を出し、両手で運んだ。奥様は表紙を開かず、卓の上でそのまま閉じたままにされた。
「一冊目から四冊目まで、まとめて納戸へ入れておいて」
「奥様。次のものは、どちらへご用意いたしましょう」
「用意はしません」
ヘートヴィヒは膝を折って一礼した。
「それから、大奥様の名簿の写しを出してちょうだい。お返しします」
社交名簿の写しは、書き物机の二番目の抽斗にある。革の紐で綴じた厚いものだ。ラウテンベルク家に嫁いだとき、大奥様から奥様へ渡された。この王都のどの家が、どの家と縁続きで、どの家とは口をきかないか。どこの当主が何を嫌い、どの夫人が誰の名前を出すと席を立つか。書いてあるのはそういうことである。
たとえば、ある伯爵夫人の頁には、鳥の羽根を身につけないこと、とだけある。
生まれた子の名。亡くなった親の月日。誰と誰が同じ日に同じ湯治場にいたか。
紐をほどいて、綴じ直す。奥様が最後の八年で書き足された分は、はじめの厚みの半分ほどあった。
その日の午後、大奥様の使いが受け取りに来る。使いは若い侍女で、包みを抱えたまま、玄関で待つあいだに二度、袖口を直した。
「あの」
「はい」
「大奥様が、なぜお返しになるのかとお尋ねでした」
「お伝えすることはございません」
使いが帰ってから半刻ほどして、隣国の商会主から書状が届いた。
宛名は旦那様だが、封を検めるのは侍女頭の役目である。中身は短かった。先だっての夜、あるお嬢様が当家の紹介状を持って訪ねてこられたが、名簿にある名がいくつも古いままであり、迷惑をこうむった。写しをお貸しになる先はお選びいただきたい。そう書いてあった。
ヘートヴィヒは書状を持って書斎へ上がった。
旦那様は机の前におられた。窓は閉まっていて、部屋は乾いた紙の匂いがする。書状をお渡しすると、二度読み返された。一度目は速く、二度目は行の途中で止まりながら。読み終えると、紙を裏返し、白いほうを上にして置かれた。
「私が貸した」
「さようでございますか」
「一冊だけだ。ノーラは、後援してくださる家を探していた。誰かに紹介してもらう必要があった」
「はい」
「妻には言っていない」
「はい」
「言う話でもない。名簿は家のものだ。当主が誰に貸そうと」
ヘートヴィヒは黙っている。黙っているあいだに、旦那様はご自分の言葉の続きを探し、途中でやめられた。
「なぜ、名簿を返す」
ヘートヴィヒは答えずに、窓へ寄って掛け金を上げた。乾いた紙の匂いが、外の土の匂いに押されて薄くなる。開けてよろしいかを伺わなかったのは、二十年で初めてである。
「旦那様。この家でいちばん丁重に扱われるのは、いつも他人でございます」
外を向いたまま申し上げた。旦那様の顔は見ていない。
「どういう意味だ」
「ご来客には、いちばん良い部屋と、いちばん良い茶器をお出しいたします。お名前は盆のいちばん上に載せます。滞在の時間もお計りいたします」
門のあたりで、荷馬車の車輪が石を噛む音がする。
「家の者には、いたしません。良い部屋も、良い茶器も、盆の上の場所も要りません。時間もお計りいたしません。いつでも入っていただけますし、いつまでいらしても構いません」
窓枠の下の埃を、ヘートヴィヒは指の背で拭った。
「旦那様は八年のあいだ、この家の者でいらっしゃいました」
背中で、椅子の軋む音がした。それきり、何も聞こえない。
ヘートヴィヒは一礼して下がる。
その日のうちに、奥様のご指示で鍵屋が呼ばれた。
北の廊下から先、旦那様の私室と、その手前の二部屋。この三つの扉の錠が付け替えられた。鍵屋は昼を挟んで四刻ほど働き、古い錠を三つ、麻袋に入れて持ち帰った。
新しい鍵は二本ずつ作られ、一本は旦那様へ、もう一本は納戸の箱に入った。奥様はお持ちにならない。
来客区画も引き直された。玄関広間から青の客間まで、そこから先へは通さない。廊下の途中に衝立が立てられ、絨毯の色が変わるところが境になった。
来客区画の外へ出された調度が、廊下にひと晩置かれた。そのうちのひとつは、去年まで玄関広間にあった背の高い燭台である。誰も戻す指示を出さなかったので、朝には納戸へ運ばれていた。
夕方、洗い場の前で下働きの娘が三人、寄って何か話していた。ヘートヴィヒが通ると声がやんだ。
「言いたいことがあるなら、言いなさい」
いちばん年嵩の娘が前へ出た。
「ヘートヴィヒ様。これから、どなたかがお見えになったら、どういたしましょう」
「札のとおりです。火曜と金曜、お名刺をお持ちの方だけ」
「札の日でない日に、お名刺をお持ちでない方がお見えになったら」
娘は昨日、玄関にいた。誰のことを言っているかは分かる。
「そのときは、わたくしのところへ」
「ヘートヴィヒ様がお決めになるのですか」
決めない。決めるのは女主人である。二十年、一度もそこを間違えたことはない。
この家に来て二年の者には、まだ分かるまい。
その晩、ヘートヴィヒは青の客間へ上がった。奥様は窓ぎわの、脚の揃っていない椅子に腰かけておられた。膝の上に何もお持ちでない。刺繍の枠も、暦も、帳面も。
二十年のあいだ、この方の手が空いているのを見た覚えがない。嫁いでこられた日ですら、玄関で荷の数を数えておられた。
「奥様」
「はい」
「札の日でない日に、お名刺をお持ちでない方がお見えになりましたら、いかがいたしましょう」
奥様は窓の外をご覧になっていた。庭は暗く、木の輪郭だけが残っている。
「ヘートヴィヒ」
「はい」
「あなたが決めてちょうだい」
「わたくしが、でございますか」
「ええ。もう、判断はいたしません」




